思い通りにならない「他人」に悩むあなたへ〜「支配者」と「リーダー」〜

自分の為にしか、動けない

「さて、そろそろ宿題をやろうか…」
と、ちょうど思っている時に親から、
「ちゃんと宿題やりなさい」
と言われると、せっかくやろうと思っていたやる気が途端に削がれる…

こういうこと、ありますよね。

親は、子供に頑張って欲しいと思って、
自分の言葉が、子供の行動を促すと思って、
「宿題やりなさい」
と言うのですが、それを言ったがために、せっかくのやる気を削いでしまう事があります。
親からしたら、「子供はなかなか思い通りにならない…」と思い知らされる場面なのですが、
これは親子に限らず、人間関係全般に言えることで、「他人は思い通りにはならない」ものなのですね。

これは、人間は「自分の為」にしか動くことができない、という本質に起因するものです。
他人にコントロールされて自分の行動が左右されるという事が、心底嫌なのですね。

そう聞くと、
「他人に為に行動したい人もいるんじゃないか」
という疑問が出てくるかもしれません。
「この人のためになら、何でもしてあげたい」
「この人が望むように、行動していきたい」
「この人の指示なら、私は喜んで従える」
そんな場合が確かにあります。

だけどそれも、「そうしたい」という「自分自身の望み」が、まずあってこそですよね。
きっかけは、その「他人」かもしれない。
だけど、その他人を縁として、自分の心の中に、
「この人についていきたい」
「この人の望む通りに行動したい」
「この人が喜ぶことがしたい」
という気持ちが起きていて、その「自分の心」に従って行動が起きています。

そんな「自分自身の望み」がまずあって、その「望み」に従って行動する。
そういう形でしか、私達は行動することは出来ません。
そんな「自分自身の望み」も起きていない時に、他人の方から「自分をコントロールしよう」という言動が割って入って来ようものなら、反発しか起きません。

人間は自分の為にしか行動できない。
自分自身の望みに従ってしか、行動できない。

この本質を忘れる所から、人と人とは大きな摩擦を起こし、お互いに疲弊してしまうハメになってしまうのですね。

「他人を思い通りにしよう」という「惑い」

人間の欲望は本当に強いもので、その望みを満たそうとして、ついつい「他人」を自分の思うように動かそうとすることがあります。
まるで、荷車を押して動かしたい方向へ動かすように、他人を自分の思う方向へ「動かせる」ように思ってしまう時があります。

「他人の行動を自分の意図でコントロールできる」
という思いは、非常に危うい「惑い」と言えます。

自分でコントロールできるのは、自分の行動だけ。

この鉄則は、どれだけ言い聞かせても過ぎることのない重要な事です。
自分の中に起きた「心」に従ってのみ、自分の行動は始まります。
その「心」が起きない限りは、どれだけ環境が整っても、行動は始まりません。

周囲の人が、自分に「勉強をしていい成績をとって欲しい」と願っていても、
最高に分かりやすい教え方をしてくれる教師がいても、
勉強道具も、勉強部屋も、本も、ネット環境も全て揃っていても、
自分に「勉強しよう」という心が起こらない限りは、決して自分が「勉強する」という行動を起こすことはありません。
「馬を水辺に連れていくことはできても、水を飲ませることは出来ない」
という格言がありますが、まさにそのことです。

そんな「心」が起きてもいないのに、
他人が
「あなたの事を思って…」とか
「これは価値があると思うから」とか
「心配だから」とか
「○○さんに心配かけたくないから」とか
そんな「他人の都合」「他人の感情」を丸出しにして、
「だから、行動して欲しい」
と迫ってきた、全力で拒絶したくなるばかりですよね。
そんな「他人の感情」で、どうして自分が動くのか、という事です。

とりあえず、押し付けられるストレスから逃れたいために、
「うん、そうだね、あなたの言う通りだと思うよ」
と、同調を示すことがあるかもしれません。
或いは、
「分かったよ」
と、しぶしぶ承諾して、申し訳程度の行動を起こす事はあるかもしれません。
けれどそんな、
「押し付けられるストレスから逃れたい」
という心を相手に起こさせて、そんな心からの行動をさせることに、さほどの意味はないですよね。
一時的に、「思い通りになった」という自己満足が得られるだけです。

「リーダー」とは「選択肢を示せる人」

他人の意図や感情によって、自分の行動が始まることはあり得ない。
自分の行動を起こすのは、自分の心だけ。

これは、どうにも動かし難い道理なのですね。

けれど同時に、その「自分の心」を強く動かすものが、他人の行動だったりもします。

「立派な医者になって、多くの苦しむ人を助けたい」という「心」
「ユーチューバーになって、ネット上でエンターテインメントを提供しつつ稼ぐ生き方をしたい」という「心」
「この人の役に立ちたい」という「心」
そんな、私達が行動を起こす「因」となる「心」が起きるのは、「他人」という「縁」に触れた時が非常に多いわけですね。
どんな結果も「因」と「縁」が揃って、生ずる。
これが仏教で教えられる因果の道理です。

私達が「行動を始める」ために、「縁」の存在は非常に重要です。
他人との「出会い」が新たな行動の始まりとなったという経験は、多くの人にある事だと思います。
その「他人の行動の姿」が、自分に大きな衝撃を与え、「これだ!」という直感が働く。
そこから、自分の理想の未来が開けてくるイメージが自分の中にどんどん沸いてくる。
すると、ワクワクするような感情が湧き上がってくる。
そうなれば間違いなくその人は「行動」するでしょう。
たとえ周囲の人が「やめときなさい」「あなたには無理だから」「心配かけないでくれ」と止めても、
その人の「心」にそれだけの燃え上がるものが、何かの「縁」に触れた沸き起こったならば、もう行動は止まらないでしょう。

他人に、そのような「動かずにいられなくなる心」を起こさせるような影響を与える人を「リーダー」と言うのでしょう。
優れたリーダーの背中を見るとき、その言葉を聞くとき、その行動を見るとき、
多くの人が、自分に強力な「選択肢」を見出すことができます。
「そんな道があるのか」と、眼前に輝く道が開けてくるような感覚を起こさせます。
そこから「動かずにいられない心」が起きるのですね。
他人に、そんな希望に溢れた「選択肢」を示せる人が、リーダーだと言えます。

そういう意味で、「他人が他人を動かした」ように見る場面は確かにあります。
ですが、あくまで「動かした」ように見える「他人」は、「動いた」人にとっては「縁」なのです。
たとえその「縁」に触れても、自分の中に「因」がなければ、行動は起きません。

だから、同じ「縁」に触れても、その「縁」をきっかけに行動を起こすかどうかは、やはり人によって変わります。
全く行動が変わらない人もいますし、
動きたい「心」が沸いてきて、行動が始まる人もいます。

「誰か言動の影響を受けて行動が始まった」
というのは、
誰か言動という「縁」が加わった瞬間、その人に「因縁」が揃って、気持ちが動き始め、行動が始まった。
これが実態なのですね。

私達は、決して他人をコントロールなど出来ません。
ただ、他人をリードする縁になることが出来るのみです。
「コントロールする」のと「リードする」のは、いずれも「他人の行動」に向けたものであっても、
アプローチが全く違います。

真に人を動かすのはいつも「支配者」ではなく「リーダー」なのですね。
親であれ、上司であれ、先輩であれ、先生であれ、
「支配する」のではなく、「リーダーたらんとする」事がその役割を果たす肝と言えるでしょう。

こちらに
いいねして頂ければ、Facebookで最新記事をチェックできます。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする