千変万化する「心」のしくみは…?
空が薄暗くて、雨がザーッと降り続けて止む気配がない…
こんな天気の日は、私はけっこう気持ちが沈みがちになってしまいます。
わりと天気の影響で気持ちが変わりやすい方なのかなと自分では思っています。
それはそれとして…
「天気」と「心情」って、わりと似たところがあるのか、
人の気持ちを「天気」で描かれる事が、映画やドラマでもよくあります。
悲しい場面に、タイミングよく雨が降ってくる演出とか、
あまりにも「お約束」なんですけど、昔も今も使われる演出ですね。
そして、見ていて違和感がない。
確かに、「色々と微妙に変化する」っていうところは、よく似ています。
同じ雨でも、激しい雨や、しとしとと降る雨や、様々なタイプがあるように、
「悲しみ」や「落ち込み」にも、実に色々とあります。
そんな微妙な変化があると思ったら、
急にサーッと晴れ間が広がっていったり、
逆に突然、雷雲が現れて、激しい雷雨となったり、
「あれ…さっきまで怒ってたと思ったら、なんだか上機嫌になってきた…?」
「あれ、急に表情が曇り始めて…何かマズいこと言ったかな…?」
と、予期せぬ人の心情の変化に何度うろたえたことか知れません。
他人の心情もそうなのですが、自分の心情もまた、自分でもうろたえる程に浮き沈みは起きてしまいます。
「浮き沈み」の激しさの個人差はもちろんありますが、それは程度の差であって、
自分でもよく分からない間に、気持ちが上がったり、沈んだり、また色んな感情が沸いてきたり…
自分の事ながら謎が多すぎるのが「心」というものです。
天気だって、まだまだ謎が多いのでしょう。
これだけ気象のしくみについて解明されていてもなお、
予報は当たったり外れたりで、予測が難しいということは、よく分からない因果がまだまだあるのでしょう。
自分の心についても、他ならぬ自分のことなのだからある程度の理解はしているつもりです。
こういう時には気分が上がるし、こんな場合は悲しくなるし、寂しくなるし、こんな場面に出くわすと、腹が立つ。
そういう、ある程度の感情の因果について一応の理解はしています。
それでも、まだまだ自分では理解できていない「感情のスイッチ」のようなものはありますし、
思いもよらない感情が、いつ自分に起きてくるともしれません。
一体、自分は自分の心をどれ程理解しているのだろう…?
と考え始めると、ますます得体が知れないもののように思えてくるのが自分の心なのですね。
「認識している心」と「認識していない心」
目で何かを見たり、耳で音を聞いたり、肌で何かを感じたり、という感覚から
それらを記憶したり、疑問に感じたり、何かを思い出したり、推測が働いたり…
そんな、さまざまな心の営みが、発達した五感や意識でなされている事は自分でもよく分かる「心の営み」です。
私達が自覚できるのは、そんな五感や意識の営みがほとんどなのですが、
その背景にこそ「心」の本質があって、
表面上の感覚や意識を根本的に動かしている「心」の領域が確かに存在しているはずなのですが、
どうしても「五感」や「表面的な思考」にしか目が行かず、その背景までは認識が及ばないのですね。
なので、どこまで行っても自分ながら、自分の心は不可解という事になってしまいます。
ですが、現に私達の心は、
急に調子がノッてきたり、
ぜんぜんやる気が出てこなかったり、
悲しくなったり、不機嫌になったり、楽しくなったり、
天気が変わる以上に、様々な感情を起こして変化を続けています。
そんな感情の変化もまた、自分で認識しているものは表面的な心の波であって、
その背景にある、「波」を引き起こし続けている元こそが、自分の認識できていない本質的な「心」の領域です。
なのに、その肝心な「心の本質」を、自分で見ることができないというもどかしさを私達は常に抱えています。
それは、この肉眼で周囲や自分の手足ぐらいは見ることができても、自分の顔はどうしても見られないし、
まして自分の「目」自身を自分で見ることも出来ないようなものです。
他人が得体の知れない存在であることならまだしも、
自分が得体の知れない存在だなんて、考えてみれば気持ち悪いことこの上ないことです。
ずーっとこれまで「私」として生きているのに、その「私」がずーっと分からずにいる。
それが、この先も死ぬまでずーっと続く…
人生は、最も大切なのに最も分からない「謎」を抱えたまま始まって、ともすればその「謎」に、かすりもせずに終わってしまう。
「本当にそれでいいのか?」
と、問わずにいられないのがまた人間です。
「謎」があれば、解かずにいられないのは、テレビ番組に出てくる「名探偵」だけではありません。
人間は好奇心旺盛な生き物で、「知りたい」という気持ちは、人間としての生をより豊かなにするものとして極めて大切なものです。
その気持ち一つで、この世の様々な謎を解明してきたのが人類の歴史とも言えます。
ならば、そんな謎が「自分自身」にあるのだから、
人間は一人一人に、
「己とは何者か?」
という「謎」が人生の課題として、生まれた時から課されているのですね。
仏教が目的としている事も、
この人生で、その「謎」を明確に解き、「本当の自分」と対面する事だと言えます。
人生のあらゆる営みに意味があり、目的がある
「己とは何者か?」
という課題を自覚すればするほど、
どこまで言っても、表面的な「感覚」や「思考」や「感情」ばかりしか認識できず、
「結局のところ、その時、その時の表面上の心の波しか知り得ないのでは…」
「その奥底にある己の本質など、知り得るものではないのでは…」
という絶望感が漂ってきます。
だけど、「己自身」にそんな謎がある以上、
それは放置して終わるべきものではなく、「人生」の中で解くべき大切な「課題」と言えるのですね。
「人生の課題」って何だろうか?
結婚することなのか?
子孫を残すことなのか?
誰かの役に立つことなのか?
誰かを愛し、愛されることなのか?
何らかの仕事を成すことなのか?
仏教の答えは、「己を知る」ことです。
そして、人生の全てのことは、「己を知る」ための因縁とすることが出来るのですね。
一生懸命勉強しているのも、
仕事をしているのも、
恋愛に精一杯になるのも、
子育てをするのも…
ただその時その時に取り組んでいる一つ一つの営みのように思える事ですが、
その営み一つ一つに、大切な「目的」があるのであって、
それが「己とは何者か」を明確に知る事だと説くのが仏教です。
こういう「人生の課題」という哲学的なテーマというのは、
「そういうものなのかなあ…?」
「なんか、分かるような分からないような…?」
という感じになってしまうものなのですね。
大切なテーマほど、曖昧さを拭うことができず、「一生謎のままなのでは?」という気配が漂うものです。
その原因こそが、「己とは何者か」が見えないこと一つ、なのですね。
今日も、五感は働き、思考はめぐり、生活上の営みは活発になされていますが、
「その背景に潜む、『心』の本性はどうなっているのか?」
「未だに認識しえない、本当の自分とは何者か?」
という課題は、常にその解決を迫り続けています。
その課題が明確に解けた時に、曖昧になされていた人生論のあらゆる謎が氷解することでしょう。
このブログでも紹介している通り、仏教では色んなことを私達に教え勧めています。
「因果応報」という道理を説いて、
「自分の様々な結果が報いてくる因果をごまかすことなく観るように」
「煩悩」という人間の本性を説き明かして、
「どんな醜い実態であろうと、目をそらさずに自己の本性を観るように」
「無常」という現実を説いて、
「あらゆるものに、常はなくて続かない。自分の命すらも、必ず終わりが来る。
その現実をごまかさずに観るように」
極めて現実的で、シビアで、だけど否定できない道理を教え、
毎日の生活の中で、常にその道理に立ち返ることを教え勧めるのが仏教です。
そういう実践の一つ一つが、「己を明確に知る」というゴールに至るまでの「道」となっている事に、
その歩みの中で知らされてゆくことでしょう。