他人の姿に翻弄されずに自分の道を歩むには~「有無同然」を知る~①

割り込んで来る「他人の人生の魅力」に翻弄されないためには

他人は他人。自分は自分。

とよく言われますね。

色んな場面で言われる言葉だと思いますが、
他人のことが羨ましくて仕方がない気持ちにかられた時に、自分に言い聞かせる言葉だったりします。

「他人のことが羨ましくて仕方がない」

このことでモヤモヤする、悶々とする。
この気持ちに1日の間、どれぐらい支配されてしまっていることでしょうね。

いつも周りに人が集まってくる「人気者」を見たとき。
高級な寿司屋で食事している人を見たとき。
幸せそうなカップルを見たとき。
Instagramで海外の非日常の経験をしている姿を見たとき。
会社で有能さを発揮して周りから頼られ慕われている同僚を見たとき。

つい心がザワついて、その人の手に入れている現実を自分も欲しくてたまらなくなる。

こういうことが1日にどのくらいあるでしょうか。
賑やかな街を歩いたりすると、その頻度は上がるでしょうね。
FacebookやInstagramのようなSNSを起動させると、これまたザワつきそうです。

それ自体が悪いことかと言うと一概には言えないでしょうけど、その感情がいろんな妨げになってしまうことが多いのは否めません。

他人の人生の一場面に、いちいち自分の感情を持って行かれるのが煩わしい。

そう感じる人も多いことと思います。
少なくとも、そればかりに心が支配されたり、いちいち翻弄されたり、流されたりしたくない。
自分の道を堂々と歩んでいたいと思うわけです。

「魅力的な他人の人生」が突如割り込んできても、流されることなく「自分の道」を堂々と歩むために、強い力となる教訓が仏教にあります。

仏教で説かれる「有無同然(うむどうぜん)」という言葉について今回はお話ししたいと思います。

私を翻弄するものの正体

「有無同然」とは、「有」っても「無」くても同じ、ということなのですけど、
この「有る」というのが、私たちがついつい「欲しい」と思ってしまういろんなものです。

賑やかな街を歩いていたりSNSを起動させたりすると目に飛び込んできて心を奪われてしまう色々なもの。

いい家に住んでいて。
いい車に乗っていて。
綺麗でおしゃれな服を着ていて。
素敵な恋人がいて。
海外旅行に出かけられたり。

それらが「有る」のも「無い」のも同じだというのが「有無同然」という言葉なのですが。
とてもそうは思えませんね。
自分が持たない、他人が持っている良さそうな数々。
それは有ったほうが幸せに決まっているのであって、有っても無くても同じだなんてとても思えないでしょう。

私たちは特に、他人の持っているものに対して余計に「有ったらいいな…」という思いがかき立てられるところがあるようです。
「隣の芝生は青い」
という諺は、他人のものは何でも良く見えるということを言っています。

他人が手に入れているものを見て、私たちはどうしてそこまで惹きつけられるのでしょうね。

「他人が食べているカップラーメンほど美味しそうなものは無い」
って、よく言いません?
「一口食わせろ」て、言わなくても心の中では思っているっていう…
これ、みんな共感するんですよね。面白いぐらいに。

細くて白い麺。
立ちこめる湯気。
暖かそうなスープ。
そんなカップを手に持って、割り箸を突っ込んで麺をすくい上げて、「ハフ、ハフ」とか言いながら口に入れて、
「ズルズルー」って麺が吸い込まれていく。
そして、あの独特の匂いがこちらまで漂ってくるのです。

どうです?想像しただけで食べたくなりません?
別に、100円ちょっと出せばすぐに買って食べられるただのカップラーメンですよ。
それに、そこまで私たちは惹きつけられます。

自分の定食と他人のラーメンの違いとは

ちょっと前に、友達と車で出かけているときに高速道路のサービスエリアに入って、一緒に晩ご飯を食べたことがありました。
確か私は、何かの定食を頼んで食べたような気がします。
何の定食だったか、ちょっと思い出せないのですが…
ただ、その時に友達が注文して食べているラーメンがやたらと美味そうに見えたことが、記憶に残っているのです。

私にだってラーメンという選択肢はあったのです。
それを選んでも良かったのに、自らの意志で私は「何とか定食」(やっぱり記憶にない)を選んで注文したのです。
それなのに、友達が注文して出てきたラーメンを後から見て、そっちの方が美味しそうに見える。
食べている所を見ると、なおさら美味しそうに見える。
「スープを一口寄越せ」という言葉が喉まで出掛かっている。
そして、そのラーメンの方がよっぽど記憶に残っている…

分かります?この気持ち。

じゃあ、そのラーメンを食べている友達は、私の食べている「何とか定食」(やっぱり思い出せない)よりも美味しいと思って食べていたかというと、別にそんなことはないと思います。
実際のところは分かりませんけど、きっとそんなに幸福感に大差はないでしょう。

何が違うのか。

それは、私の食べている「何とか定食」は、私が「現実に食べている」。
友達の食べているラーメンは、友達の表面的な姿から私が「想像している」。

この違いです。

そして、表面的な情報から、まだ手には入っていない現実を想像すると、現実以上の価値を見てしまう。
こういうことが、確かにあるのですね。

自分が持たない、自分と違う現実を他人が味わっている。
それを私が表面的に見て、私たちは勝手に色々と想像してしまうのです。

だけど考えてみれば、それは私たちの勝手な「想像」です。

例えば、一人でいる自分の目の前をカップルがとても幸せそうに手を繋いで歩いていて、その女性の方が自分にとってどストライクの好みのタイプだった。
すると私は、理想的な「幸福」というものを勝手に想像するのです。そして、「いいなあ…」という気持ちになる。

だけど私は、目の前のこの瞬間しか見ていないのです。

そのカップルがいま見せている姿に至るまでにどのような経緯があったのかも知らない。
その背景の人間関係にどのような事実があるのかも知らない。
この2人との間で他の場面ではどんなやりとりがなされているのかも知らない。
2人の持っているスマートフォンのLINEの履歴にどのようなやりとりが記録されているのかも、私は何も知らないのです。
私が見ているのは、(私から見て)幸せそうに手を繋いでいるカップルの姿だけなのです。
そこから私が勝手に想像を働かせているだけなのです。
もし、そのカップルの現実を私がそのまま経験したら、まったく違う現実がそこには待っているはずなのです。

本当は「他人の現実」を羨んでなんかいない

「他人を羨んでいる」と言いますけど、それは正確ではありません。
実態はこうです。
他人の表面的な姿から私が勝手に「理想的な幸福」を想像して、それに対して「いいなあ…」と欲している。
「他人の現実」なんて、私は全然分かっちゃいないのです。
本当はそんな「理想的な幸福」なんて、その「他人」にもないし、もちろん今の自分にもないのです。
どこにもない幻の幸福を勝手に想像して、それを目の前の他人が味わっているように錯覚して、「羨ましい」と言っているだけなのです。

「どこにもない」幸福を、他人が持っているように見えて、「自分もそうなりたい」と思って悶々とする。
蜃気楼を追いかけているようなものです。

仏教で「有無同然」と言われるのは、
「その他人が本当に味わっている「現実」は、あなたが「無い」と言っているあなたの現実と、そんなに変わりませんよ。幸福感は、同じようなものですよ。」
ということを教えられているのです。

私には「無い」
あの人には「有る」
そう思える状況に対して、いちいち心を奪われてしまう私たちへの、仏教のとても大切な教訓なのです。

このことを深く理解することが、日々見せつけられる「他人の人生」の幻想に振り回されることなく、自分の道を堂々と歩んでいく信念を強固なものにしてくれるでしょう。

なるほど、他人の現実なんて私には分かりようがない。私が勝手に想像しているだけ。
それはそうだろうけど、じゃあその現実が本当に、自分とそんなに変わりないものと言えるのか。
本当に「有無同然」?
本当に「同じ」なのか?

そのあたりには疑問が残るかもしれませんね。
そこも踏まえて次回、有無同然について詳しくお話ししたいと思います。

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