イライラの渦中からの脱出方法
イライラしても良いことなんて一つもなくて、ただ損失でしかない。
って、分かっているのに起こしてしまうものが「イライラ」なのですね。
「イライラを起こさない方法を知りたい」
これは、巷でもかなり大きなニーズとなっているようです。
「どうすればイライラせずに生きられるか」というテーマの本はとてもよく見かけます。
ただ現実的なことを言えば、「イライラを起こさない」というのは難しいですね。
そういう感情って、不意に沸いてくるのだから「それを起こすな」と言われたってコントロールしようのないところがあります。
「気づいたらイライラは、始まっている」という感じでしょうか。
なので
「起こらないようにする」
というより
「起きてしまったイライラからいかに早く脱出するか」
ということを考えるのが、現実的なわけです。
同じ「イライラする」でも
一瞬、イラッとするけれどすぐに平常に戻れるのか
しばらくイライラに苛まれるけれど、ほどなく引いていくのか
一度起こしたイライラが、その日ずっと続いて不機嫌になってしまうのか
これらは全然違いますよね。
イライラしている時間が、とにかく心の損失であり時間の損失でもあるといえるでしょう。
周りの人にとってもイヤなことだし、何より自分が辛いのです。
その辛い状況から脱却することが、まずすべきことなのです。それも1秒でも早く。
そのためのキーワードとして紹介したいのは、歎異抄という仏教古典の中に記されているこの言葉です。
「煩悩具足の凡夫」
この言葉の意味を深く知っていればいるだけ、あなたの心にイライラが起きてしまった時に、いち早くそこから脱却できるようになります。
心がザワついた時に、このことの理解があなたを冷静に戻す強い味方となってくれます。
これから詳しくお話ししていきますね。
この「凡夫」という言葉、これは「人間」のことです。
「人間」のことを仏教では「凡夫」と言うのです。
ということはこの言葉は「人間」とはどういうものか、「私」とはどういうものか、という問いに対する仏教の答えを端的に示したものなのです。
しかもこれは、人間全てに当てはまる共通した姿を言われている言葉です。
万人共通して変わらない姿
それが、「煩悩具足」である。
これが仏教からのメッセージなのです。
ということは、このことを理解すれば
イライラしている自分も「煩悩具足の凡夫」
自分をイライラさせたアイツも「煩悩具足の凡夫」
実は同じだ。
ということを理解するということになります。
ここにこそ、冷静になれるポイントがあるのです。
この構図がいつまでもイライラを継続させてしまう
「怒りを継続させる構図」というものがあります。
自分=正義
相手=悪
この構図です。
ちょっと想像して欲しいのですけど、マンガや映画の「正義の味方」って、けっこう怒っているイメージがありません?
そしてもちろんそれは、「悪」に対する怒りです。
「許せない」
「お前だけは許さない」
正義の味方に似合うセリフのトップにあがりそうな言葉ですね。
このセリフと共に、悪に対する怒りが露わになり、そしてなぜか強くなる。
その怒りにまかせて「悪」を徹底的にやっつけるのです。
それを見て、私たちはスカッとする。
…そんな感じですよね。
マンガや映画ならば、「悪」という存在が象徴的に用意されています。
「悪役」があって、正義の味方は成り立ちます。
見ていてスカッとさせるストーリーを作るということならば、それでいいのかもしれません。
だけど、現実の人間世界は、もっと複雑です。
正義VS悪
というように完全に割り切れる場面など、果たしてあるのでしょうか。
「人同士の争い」には、双方に複雑な事情や感情があって、お互いに譲歩できない状況が起こっているといえるでしょう。
どちらかが100%の悪で、正義を行使して完全にたたきのめさなければならない。
そんな場面は、現実的ではないのかもしれません。
正義の戦隊モノ(「なんとかレンジャー」とか)のテレビ番組では、悪の組織があって、悪い親分とその手下たち(よく「戦闘員」と呼ばれます)がいて、それに立ち向かう勇敢な正義の戦士達が描かれます。
だけど、「悪の組織」と言っても、「組織」という複雑なものが存在する以上、必ず複雑な事情が起きているでしょう。
単純に構成員はすべて「悪」などと言い切れない状況が必ず生じるはずです。
下っ端の戦闘員たちにもそれぞれ家族がいたり、子供がいたり。
その生活を支えるために、この組織に加担するしかない状況があったり。
中にはすごく部下思いの幹部がいて、戦闘員達からとても慕われていて、その幹部の心の中に「コイツらをオレが支えてやらなきゃいけない」という気持ちが芽生えて…
正義の味方に襲いかかる「悪役」たちの気持ちが、本当に同情の余地のないものばかり…なハズがないのです。
知ってしまったなら、同情できてしまう。
そんな思いを抱いた「人格」があの戦闘員スーツの中にはあるはずなのです。
それを「悪の組織」という一言で片づけて、容赦なくやっつけることを「正義」と決めてかかれることなど、現実にはないはずなのです。
最近は、そういう「善悪割り切れない系」のストーリーを描いたマンガも多い気がします。
最初は「悪役」として登場した集団たちの、実状や裏側がやがて詳細に描かれ始めたりするのですね。
そうすると、「悪の集団」と思っていたものに「正義」側となんら変わらない人間味あふれる模様が描かれていて、なんとも割り切れない思いにさせるストーリーになっていくのです。
そういうの、ありません?
(あまり知らなかったらごめんなさい)
個人的に私はそういうストーリーの方が好きなのですけど。
だけど本当はそうなのだと思います。
「争い」や「戦い」には、双方に割り切れないものがあるのが現実なのだと思います。
だけど、当事者となればどうしても相手は「悪」という構図を作ってしまうのがまた人間なのですね。
この構図が「怒り」を助長させ、どこどこまでもその怒りを拡大させてゆく源となっています。
「悪者を作り上げれば楽になれる」という思考パターン
実は、「イライラしている自分もイライラさせた相手も、同じ本質を持った人間である。」
このことを理解した時に、人はとても冷静になれます。
逆に、自分と相手との間に「正義VS悪」の構造を造り、固定化してしまうと、怒りの感情もそのまま維持され続けてイライラは収まりません。
私たちには「悪者を特定できたら楽になれる」という感覚があるのですね。
だから、犯人探しをする。悪者探しをする。責めて、攻撃してしかるべき相手を見つけようとするのです。
それを「責める」ことが、イライラが晴れることに繋がると思ってしまうのです。
だから「正義VS悪」構造をすぐに造ってしまいます。
上司を悪者にして、部下を悪者にして、会社を悪者にして、政治家を悪者にして…
それを責める仲間を造って、群集心理も手伝って、「気晴らし」と思える「悪」の制裁に拍車がかかる。
だけど、実際にどうでしょう?
本当に楽になれましたか?
キリがないことはないでしょうか?
「一時的」なスカッと感は得られても、イライラは依然維持されているのです。その感情は、やっぱり自分を損なってしまうストレスであり続けるのですね。
実は私も、こういう思考にハマっていました。
「あの人も、あの人も、理不尽に自分を責める悪者で、自分はそれらに虐げられながらも健気にがんばる悲劇のヒーロー」
そんな構図をついつい自分の中でつくってしまっているのです。
…言ってて結構恥ずかしいのですけど、こういう思考パターンを持っていたことは否定できません。
そうすれば楽になれると思っていました。
だけど実際は、楽になれそうで、悶々として感情、モヤモヤとして思いは全く晴れないのです。
その先に「楽」などなかったのです。
その構図を自分の中で作っている間はイライラやザワつきは、収まりません。
逆に、その構図を消すことで楽になれるのです。冷静になれるのです。
冷静になれば、本当に解決すべき問題も自ずと見えて来るのです。
いかに自分で造り上げてしまっている「正義VS悪」の構図を崩すことができるか。
これが私たちがイライラから脱却するための課題なのです。
その答えが最初に紹介しました
「煩悩具足の凡夫」
を理解することなのです。
人間はもれなく、いつの時代もどこの国でも共通して、「煩悩具足」という姿をしている。
これが人間の本質。
だから、自分も相手も、同じ「煩悩具足」という本質を持っている。
全然違うように見えるのは、その「煩悩具足」の「表現の仕方」が異なるだけである。
このことを理解することなのです。
それには「煩悩」とは何かを、詳しく知ることが必要となります。
次回は「煩悩」の意味についてお話ししたいと思います。