巨大な未知の心の領域
「氷山の一角」という言葉がありますね。
北極や南極近くの海に浮かぶ氷山。
あれって大小非常に幅広く、様々なようですね。
最大級のものになると日本の都道府県ぐらいの広さを持つものもあるそうです。
そんなレベルのものだと、海上の船から見ると本当に「山」そのものの圧迫感があることでしょう。
そんな氷山も、海面上に出て目に見えている部分はほんの一部で、水面下の見えない所に潜んでいる部分の方が圧倒的に大きいそうです。
三角形のてっぺんの頂点の先っちょの部分がちょっと海面上に突き出ている、ぐらいのイメージですね。
大規模になると、その「先っちょ」だけでも「山」のような圧迫感なのですから、その水面下に存在する「本体」はどれくらいの大きさになるか、想像も及びません。
人間の心の構造もこれと似ていて、私たちが日頃「これが自分の心」と認識している部分は「氷山の一角」だと言われます。
「今日のお昼は何を食べようかな…」
「ああ、まだあの案件が片づいていないな…」
「あの人に送ったLINE、まだ返信がないな…」
日頃から色んな思考が頭の中で起きていますね。
意図的に「考えている」ものから、不意に心に浮かんでくるもの、さまざまな形でいろんな「心」が意識上に浮かび上がっています。
それらの「思考」は、氷山の海面上に表れた「ほんの一角」だということです。
水面下の目に見えない部分に、巨大な氷山「本体」が存在するように、私たちが意識でとらえている様々な「思考」の底にある認識していないところで、巨大な「本心」が渦巻いている。
「不意に思いも寄らない心が起きてくる」ということが私たちには時々起こります。
ある人のある仕草がなぜか無性に気になるとか
なんだか急に切ない気持ちが起きてくるとか
言いようのない不安な気持ちが沸いてくるとか
自分でもどうしてこんな気持ちになるのか分からないということがありますね。
その気持ちはどこから沸いてきたのでしょうか。
「無い」ところから現れたのではなく、氷山の水面下に存在する「本体」のように、意識の底で渦巻いていたものが、あるきっかけで意識上に「浮かび上がってきた」ものだということです。
ということは、私たちの「心」と言っても
意識上に現れている「思考」
意識の底で渦巻いている「本心」
この2つに分けることができます。
私の行動は何に動かされているのか
そこで考えてみて欲しいのは、私の「行動」は、どちらによって動かされているだろうかということです。
いや、そりゃあ人間は理性的な動物だから、当然「意識上の思考」に従って行動している。
普通の感覚ではそうかもしれません。
だけど、意外に実態は、「すでに本心によって決定されているものに、後から理性が理屈をつけているだけ」なのかもしれません。
極端な例なのですが、たとえば、勉強しなきゃいけないこと、やらなきゃいけないことが一杯あるのですが、帰り道にふと、本屋に好きなマンガの最新巻が並んでいることに気づく。
「あ…うーん、どうしよう…」
その瞬間から私の「理性による思考」が始まります。
やることは山ほどある、それは紛れもなく自分にとって大切なことばかり。だけど…
やっぱりこの最新巻が気になってしまう。そうだ、気になっているという状況を引きずったままで勉強や作業に取り組んでもきっとあまり集中できないはずだ。
それに、このマンガのストーリーに触れることで刺激を受けて、大きなモチベーションアップにつながるはずだ。
きっと、「あの最新巻、気になるなあ…」という思いを引きずってやるよりは、かえってマンガを読んでからやった方が勉強も作業も頑張れる。
こういった思考の末に、私は堂々とそのマンガを購入するという行動に至る。
さて私は「理性による合理的判断」に基づいて行動したのか。
それとも、マンガを見た瞬間にすでに結論は出ていて、その結論を正当化するための理屈を捻出しただけなのか。
いずれでしょうか。
明らかに後者ですね。
この時、私の理性は「マンガを読みたい」という私の「本心」を気持ちよく実行に移すための後押しの為だけに働いていたといえるでしょう。
これは自分でも自覚できてしまうくらいの極端な例ですが、自分の自覚なしにこういうことがどれだけ起きているかしれません。
もしかしたら、「すべて」がそうなのかもしれません。
「そんなことはない!」と言い切れる根拠があるでしょうか。
いつしか起こしている「理性的な思考」が、実は「どこから来ているのか」を私たちは知らない。
だけど、出所は必ずあります。それこそが私たちの「本心」だということです。
万人共通の「本性」一言で言うと
先の例の「マンガを読みたい」というのは私の欲です。
一方で「勉強や作業をして、自己実現を果たしたい」というのもまた私の欲です。
マンガを読むにせよ、勉強や作業を頑張るにせよ、いずれも欲が私の行動を突き動かしていることは否定できません。
「理性」は、あくまでその欲を満たすための手段として働いています。
効率よく満たす方法を見つけるために理性は非常によく働いてくれます。
意識といっても理性といっても、私の本心から出てきたもので、その本質はまぎれもなく「欲」。
この事実を直視して、その欲の本性をさらに深く掘り下げていくのが仏教の教えです。
「欲」といっても色々な欲がありますね。
食べたい欲、お金が欲しいという欲、モテたいという欲、他人から認められたい、尊敬されたいという欲、眠たいという欲…
さらに、一口に「食べたい」と言っても、「他人から認められたい」と言っても
どんなものを食べたいのか、どんな風に他人から評価されたいのか、これまた人それぞれ、千差万別です。
いや、同じ人でも年齢によって変わってきます。食べ物の好みなんて特に顕著ですよね。
ハンバーグにオレンジジュースで大喜びしていたのが、「ビールにおつまみ」とか言い出すわけですから、大変な変わりようです。
だけど仏教では、どれだけ色んな人がいても、またどれだけ大人になっても、
それが「欲」である限り、共通して変わらない本質を持っていると教えられます。
それが、「我利我利(がりがり)」という特徴です。
「我の利益、我の利益」ということで、「自分が得するように、自分の利益になるように」としか動かないものが「欲」だということです。
「欲」と言うからには、それはあくまで「自分を」満たそうとするものです。
子供の頃は、とにかく直接的、短期的に自分の欲を満たそうとするので、あからさまに周りのことを考えずに、我が儘を言ったりやったりします。
「あれ買ってええ!!」と、親にだだをこねたり。
「聞いて、聞いて、私の話を聞いて!」とにかく自己主張をしたりします。
あれが欲しい、これが食べたい、誉めて欲しい、認めて欲しい。
そんな欲をそのまま、直接的に周りにぶつけるのが子供ですよね。
もちろん個人差はありますが。
結果的に周りに迷惑をかけることが多くなります。
「まあ、子供だから仕方ないよね」
ということにもなるでしょう。
それが大人になれば、気配りや思いやりの行動を身に付けて、周りに迷惑をかけないように、周りが気持ちよく過ごせるように、他人に喜んでもらえるように、行動するようになっていきます。
「あ、どうぞどうぞ、お先に」と譲る。
「いえいえ、結構ですよ」と遠慮する。
「お疲れさまです。いつもありがとうございます。」と労いや感謝の言葉を発する。
もちろん、これも個人差はかなりありますが…
じゃあそれは、大人になれば「我利我利」の性質が薄れているということなのでしょうか。
そういうことではないのですね。
「自分を満たすためには、まず他人に与えなければならない」という世の中の鉄則が身についていくというのが「大人になる」ということです。
それはそうですよね。
大人になっても、「あれ買ってえええ!」と言っても誰も買ってくれませんし。
いい大人が自己主張ばかりしていては、誰も話を聞いてくれなくなります。
自分を満たせるどころか、人もお金も物も自分から離れていきます。
人から好かれ、お金からも好かれる人は、「提供」の精神を持っている人だということを、知識や経験を積んで理解してゆき、行動を心がけるようになるのが「大人」です。
だけど、「自分が満たされたい」という欲の本質は子供から大人まで、一貫して変わらないということです。
「自分が満たされる」ための方法が大人になるにつれ変化し、高度になっているのです。
表面的に現れる理性的思考や行動は、大人になればどんどん磨かれ、洗練されてゆくでしょう。
だけど、その奥底で渦巻く欲の本性は、あくまで一貫して「我利我利」です。
表面的な言動はどうあれ、自分の心の奥底に間違いなく「我利我利」の本性が渦巻いている。
このことを理解しておくことが極めて大切です。
この本性を自覚せずに、
「自分は他人のために行動している」
とカンカンに信じ込んでいる状態というのが、実はとても危うい状態と言えます。
本当は「自分を満たすため」の行動をしているのに、「あなたの為、周りの為、社会の為…」と言って、またそう思い込んで行動してしまうことが、いろんな歪みを起こしてしまうことは、想像に難くないでしょう。
心の底の我利我利の本性を理解していることが、過ちだらけの人間が常に歪みを是正し、過ちを正して前進してゆく土台となるのです。
この「我利我利」の本性を理解するということについて、次回更に詳しくお話しします。