「また余計なことを考えてしまった」…その損失はいかばかりか
「余計なことを考えてしまう」
ということに、あなたはどのくらい悩むでしょうか?
それは目にも見えない、他人からも分からないことなので、
別になんでもないことのように思うのですが、
本当は、人生にもたらす損失は計り知れないのですね。
「あー、また余計なことを考えてしまってるなあ…」
と、自分でも思うことはよくありますよね。
場合によっては、家で一人でいる時なんかに、何十分も、何時間も、
辛いこと、苦しいこと、嫌なことに対して、自分を責めたり、他人を責めたり、世の中を嘆いたり、
「そんなことをどれだけ考えても、何も生み出せない」
なんて分かりきったようなことでも、どうどう巡りの思考は止まらない。
そういうことを自覚することは、多かれ少なかれ誰しもあるのではないかと思います。
「今日はみんなの前で、あんなことを言ってしまった。みんなにどう思われているかな…」
こういうことは、よく考えてしまいます。
だけど、私がそんなことを考えている間に、本当に「みんな」が「私」のことを、ああだ、こうだと考えている、なんてことは、まずないですよね。
冷静に考えれば、自意識過剰もいいところなのですが…それでも考えてしまいますよね。
「ああ思われたかな、こう思われたかな…」
なんなら、一晩中でもそんなことを考えてしまいます。
そんな一晩を経て、翌日、会社や学校に行った時に、周囲の視線から何やら「違和感」を感じた日にはもう大変です。
「周囲から、変な目で見られ始めている…」という地獄がその時から始まってしまいます。
周囲からの「奇異の目」や「敵意の目」を向けられての生活ほど、辛いものはないですよね。
「他人から否定される」
この精神的影響は、計り知れないものがあります。
「暑い」とか「寒い」とか「痛い」とか、そういう苦痛とは別次元の、
「心の奥底まで堪える精神的苦痛」と言えるでしょう。
そんな、「他人からの否定」を感じ始めると、
それがだんだんと現実味を帯びてゆき、その地獄はリアリティをもって自分を苛み始めます。
どうしてそんな「地獄」は始まったのかと考えると、あの昨晩の「思考」が大きいわけです。
あれだけ自分で何度も何度も考えて、「ああ思われてる…」「こう思われている…」という不安を、
自分の中に克明に刻み込んだわけですから、そんな心で周囲を見たなら、普段は何でもなかったようなことが、
「違和感」に思えてしまうことなど、いくらでもあるでしょう。
その「違和感」は、さらなる「不安」の根拠となってしまい、やがては「リアルな地獄」が始まってしまいます。
昨晩のあの「思考」がなければ、翌日に感じる「違和感」もなかった、
その「違和感」がなければ、「他人に否定されている不安」もなかった、
「否定されてる不安」がなければ、「リアリティを帯びた地獄」もまた、なかった。
そんな因果が見えてきます。
「余計なことを考えてしまった」
という目に見えない「思考」が、リアルな地獄を生み出す方向性を固めてしまったわけです。
とはいっても、こういうことを考えずにいられないのが私たちです。
それは「余計なこと」だなんてとても思えないからで、
それどころか「この世で最も大切なこと」ぐらいに思って、その思考から離れられないというのが実態なのですね。
「厭うて、自ずから離れる」という道
仏教では、
「心の中で考えてしまう」という行いを「意業(いごう)」と言います。
目に見える「行動」や、周囲に聞こえる「発言」も「行い」なのですが、
誰からも分からない「心の中で思うこと」を、仏教では最も大切な行いだと説きます。
自分の人生を造り上げてゆく、強い力を持った「種」であると言われます。
そうすると、私たちは困るわけです。
「最も大切なこと」と言われるその「思考」を、私たちはどうにも制御できないわけですから。
「そういうこと、考えない方がいいよ」
なんて言われても、考えてしまうものは、考えてしまうのであって、
思い浮かんでくるものは、どうしたって思い浮かんでくるものです。
それを自らの意思で「止める」というのは至難の業なのですね。
「心を制御する」と言ったって、「制御しよう」とするのもまた「心」なわけですから。
泥棒が泥棒を止めようとするようなもので、気づけばダクダクと流されているというのが実態です。
仏教では、いかに「自ら苦しみを生み出してしまう」ような「思考」から離れさせるか、
そこに力点を置いて、人間の心の実態を実に事細かに教えられています。
そして、人間が苦しむ思考から離れるプロセスを、
「観察」「厭嫌(えんけん)」「離貪(りとん)」
と教えられます。
自分の思考の実態を、ごまかすことなくよくよく「観察する」
すると、その実態の醜さからその思考を「厭う心、嫌う心」が芽生えて、
そしてその思考から「離れよう」とする。
「厭い嫌って、離れようとする」
ここがポイントですね。
臭いトイレや、臭い部屋に入ると、一秒でも早く、そこから出たくなりますよね。
「臭い」という嫌悪感は、強くそこからの脱却を促すわけです。
ところが、臭い部屋に、いつまでも居続けれいられる場合があります。
それは、その臭さに慣れきって、臭い部屋を「臭い」とも思わなくなった場合です。
だけどもし、何かのきっかけがあって、
「あれ…?この部屋、臭いぞ…」
ということを再び自覚し始めることがあれば、
その部屋から出たくなるか、その臭さの元を断つために努めるようになるでしょう。
「苦しみを生み出す思考」の実態は、決して綺麗なものではないのですね。
「臭気」がプンプン漂うような浅ましい本心が、その思考の底にはこびり付いております。
その「臭気」に気づくことができれば、その思考から「離れたい」という思いが芽生えるはずです。
ところが、この「臭気」に自分で気づくのが難しいのですね。
「あの人、言葉では綺麗なこと言ってるけど、『いやな感じ』がプンプン漂ってくる…」
なんてことが、よくあります。
その臭気を感じる他人は、どんどんとその人から離れていきますが、
自分はその臭気に気付けないので、その「言動」にしがみついて、いつまでも「臭気」を放ち続ける。
こういう悲劇は、どこでも起きていると思います。
その「臭気」の元も、自分の心にあります。
自分の「行動」「発言」「思考」の元に、どんな「本心」が動いているか…
それを厳しく「観察」したときに、そこから発せられる「臭気」に愕然とする。
そういうことに気づかせてくれる縁が仏教だから、仏教は「鏡」のようなものだとも言われます。
「仏の心に触れる」なんてことが…?
人間の心の本質的な醜さは、人間の心だけを見ていては、なかなか分かりません。
「自分の部屋が散らかって汚い」という認識は、
「綺麗に整頓された部屋」を見たときに、初めて浮き彫りになるものです。
「綺麗に整頓された部屋」を見たときに、「汚く散らかった自分の部屋」を自覚するように、
「臭気の欠片もない、ただ清浄な心」についての認識があって初めて、
人間の「臭気漂う、汚れた心」という認識を持つことができます。
仏教で説かれる「仏の心」が、まさにそれです。
「仏様」なんて、本当に実在するのか?
ということを論じ始めると、ちょっと一記事では尽きない議論になりそうなので今回はやめておきますが、
仏教で教えられる「仏の心」を知ることは、「自己を知る」ことに直結することには、間違いありません。
その「仏の心」が「慈悲の心」です。
これは、「抜苦与楽」といわれ、「他者の苦しみを抜いて、楽しみを得させる」事にのみ動く心です。
その始まりは、「人間の苦悩を徹底的に観る。」ということです。
「この人は、どんな苦悩を抱えているのか」
それを的確に察知することに、全力を注ぐ智慧が常に働いていて、
その「苦悩」を察知するところから、慈悲が発動されます。
私たちは、他人と相対する時に何を考えているでしょうか。
「この人は、どういうことで悩んでいるかな。」
「どんな不安を抱えているのかな」
「何か満たされない思いを抱いているのだろうか」
「困っていること、何かあるだろうか」
そんな事に、心が動くでしょうか?
もちろんそんな相手もいるでしょうけれど、それは、親子だったり好きな人だったり仕事上のクライアントだったり…
特別な関係にある相手に限ると思います。
職場で、上司と接する時にはどうか。同僚と接する時はどうか。
日常の色々な他人との関わりの中ではどうか。
「あ、今どんな印象を持たれたかな…?」
「何か面倒な仕事をふっかけられないかな…」
「嫌われていないかな…?」
基本的には「自分のこと」ばっかり、というのが普通だと思います。
ところが「慈悲の心」は常に、
「相手はどんな苦悩を持っているか」
そこに焦点が当てられています。
そして、その苦悩を抜いて、楽になってもらうためには…
「自分に何が出来るか。」
「何を言ったらいいか。」
「どんなことを考えるべきか。」
そのことに全力を尽くします。
「自分を守る」などという発想は、一切入る余地がありません。
そういう心が、「慈悲」です。
ある意味これは、「余計なことを考えない」ための究極の対策と言えるでしょう。
ひたすら「慈悲」の実践となる「抜苦与楽」を、会う人、会う人に、接する人、接する人に対して考える。
一人でいる時なら、普段から縁のある人に、明日会う予定の人に、
「自分のできる慈悲の実践は何か」
を、ひたすら考える。
本当にそれを実践していれば、「余計な思考」が始まって苦しみを生み出すような余地は無くなってしまいます。
そして、「慈悲」のなんたるかを知り、その実践に全力で努めてみることは、
自己の底に渦巻く「臭気を放つ心」を突き止める道でもあります。
「慈悲」を知り、「己」を知る。
これは、「己の心」に打ち克つための、仏教が示す古今東西変わらない指針と言えるでしょう。