冷酷な人が垣間見せる「優しさ」って…
映画や小説で、よく冷酷非道な「悪役」が描かれますね。
他人の命も尊厳も、まるで紙くずのようにしか思っていない。
それどころか、蹂躙することに愉しみすら感じている。
自分が優位に立つこと、自分の身を守ることしか考えない。
だけど、そんな絵に描いたような「悪者」にも愛する家族がいて、
残虐な人物とはまるで別人のように、それらの「大切な人」たちに優しく接している。
そして、必死に守ろうとしている。
そんな展開は、珍しくないですよね。
私がちょっと前に観た映画、
『ヒトラー〜最期の12日間〜』
もちろん、そこに描かれている「悪者」はヒトラーなのですが、
部下の命も、自分の身を守るためなら簡単に犠牲にし、
国民たちの命すらも、危険にさらして憚らない。
本当に冷酷な人物として描かれていました。
ところが彼には愛人がいて、その愛人との子供がいて、彼女らには深い愛情を注いでいたのでした。
また、彼の秘書たちのことも労り、命を気遣う一面をも見せていたのでした。
命がけで戦っている兵士や将校たちに、
「ふがいないヤツらめ!」
「裏切り者どもが!」
と、冷たい言葉と態度をぶつけて、保身ばかりを考えている人物像とは、
打って変わってまるで別人のようなのですね。
こういう、冷たい人間が垣間見せる「違った一面」を見て、どう感じるでしょうか?
「やっぱりこの人も、温かい一面をもった人間なのだな…」
「本当は心優しい人なのかもしれないな…」
そんな風に思うでしょうか。
確かにこういうのは、とても美談になりやすいと思います。
「愛する人への優しさ」にクローズアップして、そこを中心にストーリーを作れば、
あのヒトラーの話も、とても美しいストーリーのように見せることもできるでしょう。
だけど実態は、言うまでもなく、
愛人や子供への深い愛情も含めて、
「自分の事しか考えていない冷酷な人間」
と評されているわけですね。
自分の心を満たしてくれる、可愛い人たちだけに愛情を注いで、
敵対する者はもちろん、身近に感じていない国民たちや、道具のようにしか思っていない兵士たちには、
情けのカケラもかける事なく、氷のように冷たい目しか向けていない。
これを自分勝手と言わずして、何を自分勝手と呼ぶのだろうか、というわけですね。
しかしこの「自分勝手」を、上手に演出すれば、
「優しい一面を持つ人間」
「本当は深い愛を持っていた人」
「愛する家族を守るために、あえて冷酷にならざるを得なかった悲劇の主人公」
と、描けなくもないわけですね。
「優しさ」の優先順位という現実
ヒトラーの話は極端にしても、人間には少なからずそういう面がありますよね。
私達の精神力、体力、時間には限界がありますから、あらゆる人に優しく、なんていうわけにはいきません。
どうしても「愛情を注ぐ」といっても「慈悲を注ぐ」といっても、その相手は限られます。
じゃあ誰を優先するかといえば、
家族、恋人、親友…
こういうことになりますね。
もっと言えば、「自分が好きな人」ということになります。
自分が、「可愛い」と思える人には、惜しみなく愛情を注ぐことができます。
災害に遭った人、事件に巻き込まれた人、病気で苦しんでいる人、大切な人を失った人…
世の中にそんな、見れば気の毒に思えてならない人は大勢いて、テレビなどで報道されて、私達の目に飛び込んできます。
もちろんそんな人たちを見て心を痛めはしますが、家族や恋人や友達のように慈悲を注ぐことはできないでしょう。
数分も経てば、もう他のことを考えたり、楽しい話題で笑っていたりしています。
「誰にでも優しく」なんて訳にはなかなかいけません。
場合によっては、必要にかられて他人に対して非情な行動に出るようなことだってあるかもしれません。
他人に無茶をふっかけるような事もあるかもしれません。
子供のために、どうしても…
家族の生活を守るためには、こうせざるを得ないから…
身内を守る責任が、自分にはあるから…
こんな理由がつけばなおさら、他人に攻撃的になってしまいかねません。
暖かく接する人
普通に接する人
冷たく接する人
攻撃的に接する人
相手によって、こういう差別が起きてしまうのは人間として避けられないことですね。
そしてその差別の基準は、自分の好き嫌いとなってしまうのもまた、人間です。
「好き嫌い」から離れて、同じように平等に優しく接せられる
なかなかそうはいきません。
もちろんそれを目指すことはできますが、それでもエゴから離れ切ることはできないでしょう。
これが「対人間」の場面に限らず、「全生物に対して」という視点で見れば、なおさら際立ってきます。
人間に愛される動物といったら
「犬」「猫」「ハムスター」「文鳥」…
いわゆる「可愛い動物」ですよね。
日本には「動物愛護法」という法律があり、殺傷すると罰則が課される等の内容が定められています。
しかし、そんな罰則をもって保護する動物は、明確に限られています。
「愛護動物」として、
・牛、馬、豚、めん羊、やぎ、犬、猫、いえうさぎ、鶏、いえばと及びあひる
・その他、人が占有している動物で哺乳類、鳥類又は爬虫類に属するもの
が決められています。
それ以外の動物は保護の対象外という事です。
もちろん、そんな法律に関わらずに、
「生き物の命をみだりに奪ってはいけない」
という価値観は、私達にもあると思いますが、それでも「害虫」と呼ばれる類には、また扱いは変わりますね。
犬や猫を惨殺するような事件には誰もが眉をひそめますが、ハエや蚊やゴキブリをどれだけ殺害しても、それは「駆除」と呼ばれ、有益な行動としか見られないでしょう。
私達が「可愛い」と思える存在にしか、私達の「優しさ」は及ばないのですね。
美しいものの象徴と言われる「愛情」も「友情」も、自分にとっての可愛い存在、自分を満たしてくれる存在に限定して注がれるものです。
「愛情」や「優しさ」の優先順位は、「自分を満たしてくれる存在であるかどうか」とならざるを得ない。
こういう人間の本質を、仏教では「我利我利(がりがり)」と言われます。
自分が良ければ、自分が満たされれば、他はどうでもよい。
そんな自分本位にしか動かない心を「我利我利」と言います。
つまるところ「他人に優しくする」とは…
仏教が教える人間の本質は、この「我利我利」なのですね。
この本質を離れて、何一つ行動できないのが人間だということです。
私達はどうしても、都合のいい所しか見ようとしないために、
人間の愛情の美しさ、友情の美しさ、家族愛の尊さ
そういう綺麗な部分が基本的にクローズアップされています。
まして自分の事ならなおさら、その「優しさ」の裏側にある「我利我利」の非情な心には中々目が向きません。
不完全な視野でしか見られない私達が、自分で「我利我利」の本性に気がつくのは難しいことなのですね。
そんな私達の都合から離れて、ありのままに人間を観た時に、浮かび上がってくるのが「我利我利」の本性だということです。
この「我利我利」の本性を変えることは、人間として不可能なのですね。
ただ、その人間の本性を知った上で、どうするかというのが私達にとって大切な問題です。
その我利我利にまかせて、好き勝手、自分勝手に振る舞っていればよい、ということではもちろんありません。
そんな本質の中にあって、それでも、自分の中の「我利我利」と戦って、利害に関係なく、好き嫌いに関係なく、
「他人に優しく」を貫こうとする努力は、もちろんできます。
本当に、他人に優しくあろうとする時に大切なことは、
自分の中の「我利我利」の本性との戦い
という認識を持つことです。
認識もしないものとは、戦うことも抗うこともできません。
だからまず、「他人」でも「世の中」でもなく、「自分自身」の中に「我利我利」という本性が棲み着いていることをよく理解することが大切なのですね。
「他人に優しくあろう」
その第一歩は、「我利我利」の自らの本性を熟知する事です。