私がその「場」へ入りづらい理由
「敷居(しきい)が高い」
という慣用句がありますが、これは誤用が多い言葉のようです。
確かに、私もこの言葉を聞くときにはだいたい、
「高級すぎて行きにくい」
「上品すぎて入りにくい」
「上級者向けっぽくて、参加しにくい」
そういう「場」そのものの性質から、「入りづらい」という意味で「敷居が高い」言われていました。
「この高級バーは、私にはちょっと敷居が高いな…」
「この勉強会はレベルが高すぎて、私には敷居が高い」
こんな感じですね。
正直、私もこの言葉遣いに何の違和感も感じていませんでした。
なので私もこの言葉をずっと間違って理解していたクチです。
実際にそういう感覚になる場面は多いですよね。
「私にはレベル高いな…」
「私なんかが、場違いな気がするな…」
自分の教養や経済力や力量を気にして、「場」を避けてしまうことはとても多いような気がします。
そんな時に、「敷居が高い」という言い方をしているわけですね。
ちなみに
「敷居(しきい)」というのは、和室のふすまが立っている部分で、部屋と外の仕切りとなっている所のことです。
この写真のお姉さんの指先にある木の部分が敷居ですね。
(このお姉さんに特に意味はありません)
部屋へ入るときは、その「敷居」をまたいで入ることになります。
よく、人に対して、
「二度と家に来るな!」
ということを、
「二度と、この家の敷居をまたぐな!」
という言い方で言われることがあります。
そんな「入り口」にあたる部分が「敷居」なので、
その「敷居」が高いというのは、「入りづらい」という事なのですね。
それで、「場」のハードルが高くて、ちょっと入りづらいと感じる時に、
「敷居が高い」と言っています。
ただ、本来の意味の「敷居が高い」は、
「相手に面目ない思いがある為、その人の家へ行きにくい」
という意味なのだそうですね。
どうでしょう、知っていました?
この使い方の前提には、
「合わせる顔がないな…」
という、相手に対する「申し訳無さ」という気持ちがあるのです。
そのために、その人の家へ行きにくいことを、「敷居が高い」と言うわけです。
「高級すぎて入りにくい」とか「レベル高すぎて入りにくい」というのと、似ているようで違いますね。
「このカフェ、ちょっと敷居が高い」
と言ったら、私はこのカフェの主人か誰かと個人的な関係があって、
しかもその関係がちょっとぎくしゃくしているということなのですね。
カフェが高級だとか庶民的だとかは、関係ないのですね。
「最近、実家には帰ってるの?」
「いやあ、ここしばらく、敷居が高くて…」
これは何か、親か家族に合わせる顔がない事情があるってことですね。
私の心が敷居を高くしている
それにしても、
「合わせる顔がなくて、その人の家へ行きにくい」ことを「敷居が高い」と言うのがまた、興味深いなと思います。
むしろ、「敷居が高い」という言葉のニュアンスからは、
「場」の性質そのものが私を拒んでいる、という意味にマッチするような気もします。
「上品さを要求する場」
「教養の高さを要求する場」
「経済力の高さを要求する場」
その場に入るための「ハードル」が高いことから、
「ちょっと、今の私には無理かな…」
と感じてしまう。
そんな状況の方が、「入り口が入りにくくなっている」という「敷居が高い」にマッチするようにも思います。
シンプルで、とても分かりやすい。
だから、誤用されるのも無理はないように思います。
だけど本当は、「場」そのものの性質は関係なくて、
「敷居が高い」のは、「私の心」に原因があるのですね。
あくまで私の、
「面目ないな…」
「申し訳ないな…」
「合わせる顔がないな…」
という思い。
その「私の思い」が、敷居を高くしてしまっている。
「敷居が高い」原因が、「私の心」にあるというのは、なかなか深いですね。
だけど実はこれ、仏教の考え方にとても近い発想なのですね。
仏教では、「私の心」が、この世界を生み出していると教えられます。
「心」と言うと、とらえどころのないモノのようですが、
私たち一人一人の、過去からの、
「してきたこと」
「言ってきたこと」
「思ってきたこと」
それらの積み重ねが今の「心」を形成していると言えます。
この「してきたこと」「言ってきたこと」「思ってきたこと」
これらを全て「業(ごう)」と言います。
その「業」の積み重ねが今の私の心を形成しているわけですね。
そして、世界は「私の心」が生み出す、ということは、
一人一人の業が、一人一人の世界を造ってゆくということです。
これを「業界(ごうかい)」と言います。
当然、私の過去からの「業」と、あなたの過去からの「業」は違います。
過去から、してきたこと、言ってきたこと、思ってきたことは、お互い全く異なりますから。
だから、
私の業界と、あなたの業界とは異なります。
つまり仏教では、一人一人がそれぞれ違った独自の「業界」に生きていると教えられます。
「この世界はたった一つのもので、
そのたった一つの世界を、みんなで共有している」
なんとなくの、私たちが生活している感覚ではそうかもしれません。
だけどそれは錯覚だということです。
私たちが認識しているような
「一つのみんなの世界」
というものは、初めから存在しない。
あるのは、一人一人の業が生み出す、それぞれ全く異なる業界のみ。
これが仏教の世界観です。
ということは、私のこれからの「業」次第で、私の「業界」は、どれだけでも変わるということです。
「世界を変える」と言うと、なんだか大げさなことのように思うかもしれませんが、
これまでと違うことをして、
これまでと違う発言をするようになって、
これまでと違うことを思うようになって、
私の「業」に変化が起きれば、私の「世界」は、確実に変わります。
「場」に対する心一つで大変わり
ということは、「絶対的に高い敷居」なんて、ないのですね。
その「敷居」を「高い」とするか「低い」とするかは、私の心次第ということです。
だから、「私の心」によって、「敷居」は高くなる。
これは仏教の世界観からはまさしくその通りということになります。
私の気持ちが、
「私は受け入れらている」
と思えるようになれば、
ただそれだけで「敷居」は低くなります。
家であれ、店であれ、職場であれ、イベント会場であれ、
「私は受け入れられているんだ」
と私自身が思えれば、そこはとても敷居の低い、「私の居場所」となります。
そう考えると、
高級すぎて入りづらい
上品すぎて入りづらい
セレブの場な感じで私には場違いだ
レベル高すぎて参加しづらい
こういう場面で「敷居が高い」と言われるのも、本質的には同じなのかもしれませんね。
「場」の性質そのものが原因で入りづらい
とも言えるでしょうけれど、それもまた私の「業界」の問題です。
私の心がそれでも
「私は受け入れられている」
と思えれば、堂々と入っていき、そこで堂々と振る舞い、
周囲の人もそんな自分に巻き込まれていって、尊重してくれるようになる。
そんなことが実現してしまうのだから、面白いものです。
あなたには、無いでしょうか、そういう経験が。
何かのきっかけで、スイッチが入ったように、
「私はこの場に受け入れられている」
と心から思えた瞬間から、その場がとても居心地よくなって、
自分らしく、のびのびと、その場で振る舞うことが出来ている…
そんな状況になったことが、一度や二度はあるのではないでしょうか。
「そんな経験ないよ」
と言われるかもしれませんが、これは程度の問題で、
「受け入れられている感」は強弱もあり、変動するのですね。
その感覚が比較的高かった、という時はあるはずです。
そういう時は、いろんな面で調子がいいものです。
会話も弾むし、
アドリブで気の利いたコメントや冗談が言えたり、
五感が冴え、周囲の様子がとてもよく見えていて、
とても的確な判断ができていたりします。
だから「自信を持つことは大切」と、どこでも言われるのですね。
「自分は周囲に受け入れられるような人間じゃない」
と、ついつい思ってしまうこともあるかもしれません。
だけど、先程もお話した通り、
この「世界」は、自分の業が生み出す「業界」であって、
「受け入れられる」「受け入れられない」も、私の心次第で変わるものです。
きっかけさえあれば、私の心もどう変わるか知れません。
私の心が、「受け入れられモード」に変われる活路が、必ずどこかにあるはず。
過去の記事ですが、「場違いに感じていた所」が「居場所」と変わった私の経験を書いています。
「敷居」を突破する活路をどんどん見つけて、「受け入れられる世界」を広げていきたいものです。