「自分たちはこれだけ苦労してきた」理論が通じない世の中
先輩が後輩に、我慢を強いる時
上司が部下に、苦労を強いる時
よく語られる理屈があります。
たぶん、多くの人がその理屈を突きつけられてウンザリしたことがあることと思います。
もしかしたら、自分もその理屈を他人に語ったり思ったりしたことがあるかもしれません。
その「理屈」とは、
自分も苦労してきたのだから。
自分も我慢してきたのだから。
だから、お前たちも苦労して当然だ、我慢して当然だ。
これですね。
これ、言われた方は、たいがい納得しないですよね。
よほど素直な人か、その先輩や上司を尊敬しているなら、
「そうですか、先輩がそういう苦労をされてきたのなら、自分もこれぐらいの苦労、して当然ですよね。」
と、受け取ることもあるかも知れません。
だけど多くの場合は、
「いや、あんたが苦労や我慢したことと、私のそれと、何の関係があるの…?」
「なんで、あんたが我慢してきたという理由で、私が同じ我慢をしなきゃいけないの…?」
こんな反発心が出てきますよね。
そして、もうその人を好きになれない、ちょっと距離置きたいと思う。
「自分がしてきた苦労や我慢を、なぜか強要してくる人」
というイメージが染み付いて、あまり近づきたくないと思われてしまうかもしれません。
この「自分はこれだけ苦労や我慢していたのだから」という理屈は、想像している以上に通用しないもののようです。
特に現代はなおさらそうかもしれませんね。
一昔前なら、割とまかり通っていたかもしれません。
「年長者、上司、先輩の通った道は、自分も歩むべきもの」
というような発想がまだ通用しやすかった時代もあったでしょう。
しかし今は、
「先輩が苦労したことと、自分のこれからと、何の関係があるのか?」
と、一蹴されてしまう世の中なのかもしれません。
確かに、その人を尊敬していたり、その人に付いていきたいと思うのなら、
その人の通っていた苦労は、自分のすべき苦労だと思えるかもしれません。
しかし、先輩だからといって、上司だからといって、必ずしも尊敬の対象とはならないし、
ましてその背中を追いかけていきたいという対象にも必ずしもなりません。
少なくとも、自分のしてきた苦労や我慢をこれみよがしに後輩にアピールする先輩は、
ちょっと慕われにくいかもしれないですね。
だから、この理屈を語っても、通用しないことが多いのですね。
「公平でなきゃ納得できない」気持ちの実態
だけど、この「自分が苦労や我慢をしてきたのだから…」という理屈を述べたくなる気持ちはよく分かります。
同じ会社で、同じ仕事をしていくのに、
どうして自分だけが苦労させられて我慢させられて、この人たちはそれが免除されているのか…?
それはなんとも不公平なことにように感じるのも無理はありません。
私達にはこういう
「公平でないと、納得できない」
という気持ちがあるのですね。
同じ条件で、自分が苦労しているなら、他の人も同様に苦労していないと納得できない。
自分だけが苦労させられ、我慢させられたなんて、受け入れられない。
とても理不尽な感じがするというわけですね。
たとえば、
ある部署での仕事を、自分がするようになった時、
ほとんど上司や先輩からフォローしてもらえなかった。
だから、自分で過去の資料を探したり、やり方を模索したりして、
人一倍苦労してなんとか仕事のやり方を確立させていった。
ところが、後から入ってきた社員は、上司や先輩から手とり足取り教えてもらって、
分からないことが出てきたらすぐに、
「先輩、これはどうしたらいいですか」
と聞きに行く。すると、
「ああ、これはね…」
と、すぐに親切なフォローが入る。
そうやって、ストレスなく、スムーズに仕事を覚えていって、慣れてゆくことができた。
自分がその仕事をやり始めたときと、えらい違いだ…
こういうのを見ると、どんな気持ちになるでしょう。
「いやー、良かった良かった。自分の時は大変だったけど、
もうあんな辛い思いせずに済む体制ができたのか。
これは何より、何より…」
心からこう思えるなら、本当に素晴らしいと思います。
本当にそんな感覚を持って生きられたら、どれほどストレスなく生きられることかと、思いますね。
だけど悲しいことに、なかなか心からそうは思えない現状があります。
「良かった」、どころか、理不尽な気がするのですね。
「自分はこんなに苦労してきたのに、なんでアイツらはそれが免除されてるんだ…」
「オイ、そんなにすぐに先輩に聞きに行くなよ。もうちょっと自分で考えるとか調べるとかしろよ。」
「自分は何もないところであんなに苦労して、やり方を模索していたというのに…」
とか思いたくなったり。
表面には出さないにしても、そんな「本音」が心の底で渦巻いているのも、否定できないのですね。
こういう、他人と比較して、「他人よりも自分が損している」と思える状況が、どうしても気になる。
他人にもっと苦労や我慢してて欲しい。
あるいは、他人が受ける結果が納得できない。
そんなモヤモヤした気持ちを、他人に向けてしまうのも人間の持つ性質なのですね。
実はこの心は、「因果の道理」が分からない心だと、仏教では言われます。
…いやいや、「道理」を大切にするからこそ、「不公平」が許せないのではないか。
なのに、「道理」を分かっていないだなんて、どうしてそんなことが言えるのか…?
そんな疑問が出てくるかもしれません。
だけど、自分と他人の表面的で一時的な結果だけを比較して、
「これは不公平ではないか」
「こんな他人の結果、納得できない」
などと思うのは、「因果の道理」に対する、余りにも浅い理解と言わざるを得ないのですね。
「フェアじゃない」の勘違いから脱却してこそ
「因果の道理」とは、「原因」と「結果」についての法則ということです。
仏教ではこれを「自業自得(じごうじとく)」と教えられ、
自分の行い(自業)は、必ず自分にその結果をもたらす(自得)、というのが因果の道理です。
仏教では「行い」のことを「業(ごう)」と言います。
先程までの話で言えば、会社のある部署で仕事を確立させてゆくために我慢し苦労してきたこと。努力してきたこと。
これらは全て、私の業(自業)だと言えます。
「自業自得」というのは、その私のこれまでの行いが、他ならぬ自分に、全て結果として現れてゆくということです。
私の人生が良くなるか、悪くなるか、それは自分の「行い」が決める。
これが「自業自得」ということであり、因果の道理と呼ばれる法則です。
ということは、自分にとっての問題は、自分がどんな行い(業)をしてきたかということ一つなのですね。
他人がどんな結果を受けているか。
他人がどんな行いをしているか。
これは、自分の人生の結果がどうなってゆくかには、関係のないことですね。
他人に、自分と同じ苦労や我慢をさせたところで、自分の人生が良くなるわけでも悪くなるわけでもありません。
「他人が一見、楽していい結果を受けているように見える」
そんな光景が、自分の「自業自得」と何の関係があるか、ということなのですね。
だいたい、
「他人が楽している」
とか
「他人がいい結果を受けている」
なんて、本当のところは私が知り得るものでもありません。
私から見て「楽している」というのは、
「私がしてきたような苦労をしていない」
というだけのことかもしれません。
もしかしたら、私の認識し得ないような苦労をしているかもしれません。
「自分は、仕事のやり方を常に自分の力で模索してきたのに、あの後輩はすぐに先輩に聞いて教えてもらってる。」
これは一見、自分は苦労していてあの後輩は楽している、というように見えます。
だけど、もしかしたらその後輩は、
「先輩に聞いて教えてもらえるような、いい関係を作るための苦労」
をしているのかもしれません。
「上司を味方につける」
「仕事のデキる先輩を味方につける」
これは、会社ではかなり有効な手ですが、
上司や先輩から気に入ってもらうためにも、それなりの苦労があるはずです。
仮に、そんな苦労なしに、天然で気に入られているように見えるなら、
そんな「人格」を作るための苦労が、もっと過去にあったのかもしれません。
「楽していい結果を得ている」
というのは、もしかしたら自分の独りよがりなだけかもしれません。
そう見えるその人は、本当は自分とは違う苦労をしてきているのかもしれない。
「いい結果」に見えるその「結果」も、その裏には自分には見えない「苦痛」があるのかもしれない。
私達が見えている「他人の努力」も「他人の結果」も、ほんの表面的な一時的なものにすぎません。
そんな「他人」と「自分」を比較して、
「不公平だ」
「フェアじゃない」
「自分だけが頑張っているのが馬鹿馬鹿しい」
と言っているのは、「自業自得」の道理に対する、極めて浅い見方だと言わざるを得ないのですね。
「他人と比べて公平かどうか、フェアかどうか」
実はこの感覚は、全く当てにならないのですね。
そういうものに感情を持っていかれて、
自分の努力を馬鹿馬鹿しく思ったり、
他人の怠慢ばかりに意識が向いていたり、
他人の結果を苦々しく思ったり、
そうなってしまうことを、仏教では「愚痴(ぐち)」と言われます。
辛辣な表現ですが、「愚かな惑い」ということなのですね。
「他人と自分とが、フェアであって欲しい」
この気持ちは、とても常識的な感覚となっています。
だけど、実はこれが、表面的な他人との比較に惑わされた心であり、
「自業自得」の道理を見ていない心であり、
自分の未来を切り開く歩みを妨げている心なのですね。
他人に自分のしてきた苦労や我慢を強いるでもなく、
他人との公平を殊さらに要求するのでもなく、
自分の運命を生み出す、自分の業(行い)はどうか、
ここ一つに一点集中することで、未来は着実に開かれてゆくのですね。