現実が動き出す「心の芽生え」
「これは、やったらいいんじゃないか」
と、心の囁きが聞こえてくる。
だけどいざその「行動」の一歩を踏み出そうとした段階で躊躇してしまい、結局何もできないままやり過ごしてしまった…
こういう経験が私達には結構あるんじゃないかと思います。
電車で座っている時に、席を譲ったほうがいいかなと思った場面で、
「だけどもし、遠慮されて譲れなかったら…」
と思って躊躇してしまったり、
会議中で、言いたいこと、言うべきことが心の中に起きてきて、言おうかと思ったけれど
「でも、全然的を得ない意見かもしれない…」
と思って結局何も言えなかったり、
参加しているイベントの中で、仲良くなりたいなと思った人に声をかけようかと思ったけれど
「けど、もし自分なんかが声かけて嫌がられたら…」
という思いが起きて一歩が踏み出せなかったり、
せっかく自分の中に
「これはやったらいい」
という気持ちが起きたのに、その芽が
「だけど…」
というネガティブな思いによって、一歩踏み出す「行動」に至れなかったということは、少なくないかもしれません。
確かにそれは、残念なことと言えば残念なことかもしれませんが、決して見逃してはならないことがあります。
それは、
「やろうかな」という「思い」を起こせたこと自体はとても素晴らしい
ということです。
世の中には、
「何を行動していいか分からない」
「特にやりたいことが思いつかない」
「何もやる気が起きない」
「日常のことに精一杯で、何か行動を起こそうなんて余裕がない」
などと言って、「一歩を踏み出す」以前の問題で身動きが取れない人も一杯います。
そのことを思えば、
「こういうことをやりたいな」
「これ、やったらいいだろうな」
そんな心を起こせるのは、実は素晴らしいことなのですね。
とっても素敵な「芽」が出ている状態だと言えます。
まずはそこに自信を持っていいことだと思います。
電車の中で、
「あ、席譲ろうかな…」
という気持ちが芽生えたこと。
もしかしたら、はじめからそんな気持ちすらサラサラない人が多いかもしれません。
そんな中であなたには、周りに気を配り、他人を気遣う気持ちがあったということで、具体的な行動を考えるまでに至った。
まずこの時点で「とても素敵なこと」と言えます。
会議の中で、
「これ、言ったほうがいいかな」
という気持ちが起きた。
もしかしたら、参加者の多くは、
「早く終わらないかな…」
「眠たいな…」
「今夜、何しようかな…」
「帰ったら何のゲームしようかな…」
と思っているのかもしれない。
そんな人たちには、「言いたいこと」など出てくる余地は全くないでしょう。
そんな中で、自分は会議の当事者だという自覚があった。そして、この状況を良くすることに多かれ少なかれ責任を持っていた。
だからこそ、その会議の中で「言いたいこと」が出てきたわけです。
そんな具体的な発言を考えるまでに至れたことは、やっぱり「とても素晴らしいこと」と言ってもいいのですね。
とあるイベントで、ある人に対して
「関わりを持ちたい」
という気持ちが起きた。
これも考えてみたら凄いことなのかもしれません。
そんな、あえて知らない人に関わるよりも、慣れ親しんだ人との関わりの中だけで生きていきたいという人も大勢いるはずです。
その方が楽ですよね。
相手のこともだいたい分かってて、相手も自分のことをほどほどに理解してくれてて、
「こういう話題を出せば盛り上がれる」
ということも分かっているので、気楽に楽しく過ごすことができる。
変に緊張する必要もなく、疲れることもない。
そういう快適ゾーンに浸っていたいという気持ちは誰だったるものです。
そんな中であえて、新しいイベントという環境に飛び込んで、知らない人に、「声かけてみようか」と思える。
この時点で素晴らしいチャレンジ精神が芽生えていると言えます。
他人に何かしてあげようかなと、思えたこと。
「場」に責任持って、何かを発言しようと思えたこと。
新しい人と、関わりを持とうと思えたこと。
そういう「気持ち」が芽生えたというのは、素晴らしい可能性を秘めた「芽」が出始めたということです。
「ただの妄想」と「現実化するイメージ」の違い
仏教では、何か「気持ち」が芽生えること、「心」が動くことを、「意業(いごう)」と言います。
「業」とは「行い」のことですから、「意業」とは、「心の行い」ということです。
この「意業」が、仏教では非常に重視されます。
ただ「思う」だけなんて、目にも見えないし、外界に何らの影響もないのだから、さほど意味がないのではと思うかもしれませんが、それはごく表面的な見方です。
具体的に、明確に一つの「思い」を持つこと自体が、心の中に力強いタネを蒔いたことと言えます。
その「タネ」は決して消えることはありません。
一度思えば一度、二度思えば二度、百度思えば百度、
力強いタネを着実に蒔いたということです。
一度蒔いた心の種まきは、決して消えることはありません。
何らかの「現実」を私に生み出す「種」となって、私の中に残り続けます。
ただ、「心で思う」と言っても色々ですよね。
「億万長者になれたらいいな…」
「素敵な彼女ができたら…」
「カッコいい彼氏がいたら…」
「こんな高級車に乗れたら…」
「多くの人から慕われたり、チヤホヤされたりしたい…」
こんな風にぼんやりと、
「こうなれたらいいな…」
という妄想に耽ることは、あまり現実を動かす方向には働きません。
まず、内容があまりにぼんやりしていますよね。
例えば、
「億万長者」といっても、具体的に年収どれくらいなのか。
何のために「億」を稼ぐ必要があるのか。
そのお金をどんなことに費やしたいのか。
そういう具体的なビジョンが少しもなく、「ただなんとなく」、億万長者になれたら…
そんなぼんやりとした「妄想」から、具体的な現実が生み出されることは期待できないでしょう。
「素敵な恋人がいたら…」と言っても、
その恋人と共にどんな人生を切り開いていきたいのか。
どんな風に関わっていきたいのか。
どんな関係をその人と築いていきたいのか。
そういう具体的なイメージも方針もなく、「ただなんとなく」、素敵な恋人がそばにいたら…
これまたぼんやりした「妄想」と言わざるを得ません。
「高級車に乗っている自分」にしても
「多くの人から慕われて、チヤホヤされている自分」にしても
断片的な一場面のイメージに過ぎず、まるで「夢」のような「幻」のような、「蜃気楼」のような、ぼんやりとした「想像」です。
そんなぼんやりとした「想像」にどれだけ耽っていても、現実的な結果に繋がる種まきとは言い難いものがあります。
先程挙げたような、
電車の中での「席を譲ろうかな」という思いや、
会議の最中での「発言しようかな」という思いや、
イベントでの「声をかけようかな」という思い。
これらは非常に具体的で、手に触れるぐらいにリアルな内容を伴う「思い」です。
こういう「思い」を起こすからこそ、それが私の現実を動かしてゆきます。
また、たとえその現場にいなくても、
自分が、いつ、誰と、どんな「行動」を起こして、そこからどんな「結果」につなげたいのか、
プロセスが明確で、起こしたい結果も明確で、触れそうなぐらいリアルな生き生きとして「想像」を強く抱けたのなら、
きっとその「想像」は、現実化することでしょう。
それは、先程のようなぼんやりとした断片的な「想像」とは、全く違います。
具体的で、明確で、筋道だったイメージを心の中に抱く。
このような「意業」は、とても力強い勢いで、私をその現実へ、現実へと近づけていけます。
だからこそ、リアルに何か「想像」をし、「思い」を抱いたということは、とても素晴らしいことだと言えるのですね。
少しずつ少しずつ、現実が動き出す土台が造り上げられていると言えます。
そういう「思いの積み重ね」があってこそ、私達は「行動」を起こすことができます。
だから、「思い」が起きること自体が、
「堅実な歩み」の一歩を踏み出しているのだと考えて、間違いありません。
「圧倒的行動力」の背景にある「見えない積み重ね」
どうせ「妄想」するなら、できるだけリアルにする。
ちゃんと、ストーリーを立てて、登場人物も明確にして、ワクワクするような想像を出来るだけ具体的に想像する。
そういうクセをつけることで、人生の可能性はグッと広がります。
私も、そういう「想像」をした時に、それまでになかった「アイデア」が数多く沸くことがあります。
自分でも驚くぐらいに、次から次へと、
「すると…こうして、こうして、こうしたら、これは凄いことになるかも…」
と、目の前に確固たる道が開けて、輝く未来へとつながってゆくような感覚になることがあります。
まだ何一つ行動をしていなくても、それが心の中だけのことであっても、
それが出来た時点で、現実は動き出していると言うことができます。
これまでになかった現実が現れる始まりは、いつもこういう「心の行い」であり「意業」だからです。
その「意業」がまた、新たな「意業」へと連鎖して、より具体的な、より緻密な「想像」が展開されていきます。
そんな意業の積み重ねがなされれば、やがてはもう、「動かずにいられなく」なることでしょう。
誰も止められないような力強い信念の伴った行動は、こういう「意業」の積み重ねあってこそ、生まれるものです。
信念を持って、行動をコツコツ積み重ねている人はきっと、そんな「想像」を何度も何度もしている人だと思います。
「どうしてこんなに、この人は行動し続けられるのだろう?」
と、圧倒されるような行動力に驚くことがありますね。
自分と同じような環境で同じように生活しているのに、この行動力の差は何だろうかと。
その「力」は、見えないところで育まれている可能性が高いです。
「意業」の積み重ねが、見えないところで、とてつもない「差」を生み出すのですね。
だからこそ、「具体的な思いが芽生えた」ということは、とても大切にすべきことです。
自分のこれからの「行動」を支える力強い土台を築いていることに他ならないのだから。
もちろん、心の中だけでなく、外界に影響を及ぼす「行動」をすることは大切なことです。
ですがその「行動」の範囲は常に、「私が想像したこと」に限定されます。
「想像」の限界が、「創造」の限界を決める
と言われるように、私の可能性の枠組みは、私が「想像」していることで作られているという現実はどうにも否めません。
その「想像」の枠組みを広げることなく、ただこれまでの延長線上での「行動」だけに終始していては、私に展開される現実はいつまでの限られたままです。
だからこそ、
出来るだけ自分の「想像」の枠を広げること、
自由な発想を持って、自分でもワクワクするような「想像」を出来るだけすること、
こういう目に見えない種まきを大切にする必要があります。
それが、自分の人生にとてつもない可能性を開き、そこへ向かって歩む力強い後押しとなることでしょう。