「自分の世界が変わる」の意味するところは…
「あの日々のことがまるで夢だったかのように思う」
ということをたまに聞きますけど、そんな感覚はあるでしょうか。
私は幼い頃から高校まで、ずっとサッカーをしていました。
特に小学5年生ぐらいから本気になって打ち込み始めて高校まで、ずっと自分の中で一番大きなものがサッカーでした。
その頃は、サッカーの練習、サッカーの試合、サッカー部の仲間との付き合い…
これが私にとっての紛れもない「現実」でした。
高校3年の秋の大会の5回戦で敗れて引退するまでは、そうでした。
それが引退して、受験勉強に集中しましたが、1年目は志望校に落ちて浪人して、翌年から1年間の予備校生活が始まりました。
その1年は本当に受験勉強一色という感じでしたので、これまでの「サッカー人生」とは打って変わって「受験勉強」が何よりの私の「現実」となったのでした。
受験モードに入ってからは
授業の取り組み、宿題をこなすこと、予備校での定期的な試験、成績、順位、合格判定…
これが私にとっての何よりの「現実」となりました。
模試の結果が「B判定」とか「C判定」とか、これは私の切実な「現実」でした。
志望校の合格発表の日、掲示板で自分の受験番号を見るまではそれらの「現実」の中に生きていました。
合格が決まって、春から念願の大学へ通うことが決定した瞬間から私の現実はまた切り替わります。
大学生活、どんな授業をとるか、どんなサークルに入るか、どんな友達とつきあうか、どんなバイトをするか…
今度はこういうことが私の現実となります。
もちろん今となってはそれも過去で、今はまた今の私の現実があります。
もちろん、このブログの記事をお届けするという現実に、今は没頭しているわけですね。
面白いもので、新たな現実が始まると、それまで現実と思っていたことがまるで夢のように消え失せてしまいます。
もちろん大切な思い出とも言えるのですが、それでももう、過去のことです。二度とあの現実に戻ることはあり得ません。
覚めてしまったら戻れない夢の世界と、その点は変わりありません。
そして私にとっての現実は、今目の前の現実だけとなります。
現実は変化していく。
それはそのまま、私の世界が変化していく、とも言えます。
この「世界が変わる」という言葉も時々聞くと思います。
「なんだか、世界が変わった気がする」
「この体験で、あなたの世界が変わる」
よく言われますよね。
この「世界が変わる」というのは、何を言っているのでしょうか。
本当にこの「世界そのもの」が変わることなのでしょうか?
そう問うと、
いや、「世界そのもの」は変わっていない。
私の心が変化するから、世界の見方が変わるという意味でしょう。
そう答えるのが普通ではないかと思います。
ところが仏教の世界観は違います。
本当に「世界そのものが」変わったのだと、仏教は教えます。
それは一体どういうことなのか?
詳しくお話ししていきたいと思います。
「無我」と「錯覚」
仏教の非常に特徴的な教えの一つが「無我(むが)」という教えです。
「諸法無我(しょほうむが)」という仏教の言葉があります。
「諸法」というのが、「あらゆるもの」「すべてのもの」ということです。
あらゆるものには「我」は無いということですが、
「我」というのは、「固定した変わらないもの」という意味です。
私たちは
「ここにコップがある。ここに時計がある。テーブルがある。イスがある。」
というように認識していますが、
「これはコップだ」と見ている時点で、そこに固定した「我」を認めているということでもあります。
仏教ではそんな「我」は無いと言われております。
固定した「コップ」という存在も固定した「時計」という存在も全て錯覚で、そんな固定した存在は無いというのが「無我」ということです。
…ちょっとこれだけだと、何を言っているのか分かりにくいかもしれませんね。
夏目漱石の小説「我が輩は猫である」にこんな歌が出てきます。
「引き寄せて 結べば柴の庵にて 解くれば元の野原なりけり」
この歌は「無我」ということを非常によく表現されています。
背の高い「柴」がぼうぼうに生えている野原を想像してみてください。
人間の背丈の2倍くらいの「柴」が生い茂っているとします。
その草原のある地点から、周りの柴を引き寄せて先っちょを紐で結ぶと、引き寄せられた「柴」たちが、まるでテントのような形になって、人が入って雨をしのげるものが出来上がります。
出来上がったそれを見た人は
「ここに柴の庵がある」
と呼ぶでしょう。
ところが先っちょを結んでいる紐を解けばどうなるでしょう。
「柴の庵」はもう見る影もなく、元通りのただ辺り一面の「野原」となってしまいます。
これを、
「引き寄せて 結べば柴の庵にて 解くれば元の野原なりけり」
と言っています。
さて、紐を解いてしまった瞬間、「柴の庵」は消えたのでしょうか?
そうではありません。最初から「柴の庵」なんて固定した存在は無かったのです。
一時的に「柴」と「紐」が組み合わさって、人が入れるような形になっている「状態」があるだけです。
その一時的な「状態」を指して、人が「そこに柴の庵がある」と、勝手に言っているだけです。
人から見ればその状態は、「中に入って雨をしのげるもの」と映りますから、人にとってその状態は「庵」なのです。
だけど実態は、一時的に因縁がそろって、そのような形となっている「状態」があるだけです。
だから、因縁が離れたならば、紐が解けたならば、まるで消えてしまったかのように「柴の庵」なんてものは無くなってしまいます。
だけど、初めから固定した「柴の庵」という存在は無かった。
ただ一時的に因縁が揃ってそのように見える「状態」があるだけ。
これが「無我」ということです。
固定した「柴の庵」(我)という存在は、初めから無い。
このことが、あらゆるものにおいて言えると教えるのが「諸法無我」という教えです。
「コップ」というのは、ガラスの素材が集まって水を注ぎ飲むことのできる「状態」を人がそう呼んでいるだけ。
「テーブル」とは木や金属が集まって、その上に物を置いたり食事をしたり作業をしたりできる「状態」を人がそう呼んでいるだけ。
「時計」というのは、金属やプラスチックやゴムなどが機械仕掛けで組み合わさり電気の力で針が一定のスピードで動くという「状態」を人がそう呼んでいるだけ。
いずれも、因縁が揃った一時的な「状態」を人がそう呼んでいるだけのものです。
そこらを飛んでいる蚊やハエからすれば、テーブルもイスも、まして時計もありません。
人間の行動にとって意味のあるものを、「固定した存在」であるかのように私たちが認識しているだけなのです。
だけど実態はそんな固定した存在(我)は無い。
これが「無我」ということです。
固定化された世界からの脱却
物事を固定して見てしまうという性質が人間にはあります。
これが「我」を認めてしまう人間の性質です。
この性質から私たちは「現実」を固定化し、「世界」を固定化してしまいます。
まるで固定した現実や世界から支配されてしまっているように錯覚して、必要以上に現実を恐れたり時には絶望感を抱いたりします。
目の前に存在する世界が、何か絶対的な世界であるかのように思ってしまう。
そしてそれが、いつまでも続くように錯覚してしまう。
ここに囚われてしまうことが、人間の無限の可能性を固く閉ざしてしまっていると言えます。
私の家族がこんなだから…
私の会社がこんなだから…
この社会がこんなだから…
私はこんな人間だから…
私を取り巻く固定した「現実」を自分で作り出してしまう。
この「現実」の固定化を私たちは無意識で行ってしまっています。
その「固定化」の迷いを打ち破るのが「無我」という教えです。
固定した「現実」も固定した「世界」なんてものも、無い。
一時的に、因縁が揃った「状態」がただあるだけ。
因も縁も変化するのだから、現実はどれだけでも変わってゆく。
現に、最初にお話ししたように、私の世界もあなたの世界も、変わってきていますよね。
それはこれからだって、そうです。
現実の固定化、世界の固定化、そして私の固定化。
そんな、ガチガチのがんじがらめを自分で生み出して、それに自分が苦しんでいる。
この「固定化」から脱却することが本当に望む人生を歩む第一歩と言えます。
「諸法は無我」という教えから生み出される仏教の世界観について、次回詳しくお話したいと思います。