「想像させたもん勝ち」の世の中で自分の道を歩むには
他人に何かを売る時のポイントは「相手に想像させることだ」と言われます。
相手に売りたいものがあって、セールスを仕掛ける時には、いかに相手に
「もし自分がその商品を手に入れたら…」
ということを想像させるかが勝負。
一度想像したならば、相手はそれを手に入れた満足度や幸せ感を勝手に想像してくれて、どんどん欲しくなってくれる。
それを手に入れている現実をまるで疑似体験したかのようになってくれる。
それを買うことへの抵抗は、どんどん薄れていく…
そういうことを理解している業者たちは私たちにどんどん想像をかきたててきます。
私たちの周りには、いろんな想像をかきたてるものであふれています。
電車に乗れば、吊り広告が嫌でも目に入ります。
ネットにアクセスすればまた、いろんな広告が目に飛び込む。
それに加えて実際に楽しそうに、幸せそうに見える他人の姿があちこちに目につきます…
これでもか、これでもかと私たちに「想像」をかきたてます。
そんな中で生活している私たちはついつい、「想像上の満足感、幸福感」に振り回されて、あれも、これもと翻弄されてしまいがちなのですね。
一度、想像上の幸福感に浸ってしまうと、私たちはそこに実際よりもはるかに高い価値を置いてしまって、それを手に入れるために見合わない労力や資源をそこに注いでしまいます。
一度「どうしても欲しい」となると、恐ろしいぐらいに他のことを犠牲にしてでもそれを手に入れようとしてしまうのがまた、人間の危うさなのです。
そして現実には、そこまで懸ける程の価値はなかったりするのです。
私たちが費やせる時間も資源も、限りがあります。
問題はそこなのです。
私たちにもし、無限の時間と資源があるのなら、心動かされたものを手当たり次第求めていっても良いのかもしれません。
ですが、短い人生で求められるものは限られています。
引き起こされる想像一つ一つにいちいち振り回されては、
「自分にとって本当に価値あるものは何か」
を見つける間もなく人生は過ぎ去ってしまいます。
だからこそ私たちは、そんな想像上の満足感や幸福感と、現実に経験した時に味わうそれとは、全く違うということを理解しておくことが大切なのです。
他人を見て
「幸せそうだなあ…」
欲しいものを見て
「これを手に入れたらきっと幸せだろうなあ…」
と、想像していますが、殆どの場合これは、現実とは全く違うものを想像しているということです。
だから実際に欲していたものが私の手に入ると、それまで想像していたのとは全く違う現実が身に起きるのですね。
もちろん、手に入れた瞬間は嬉しいかも知れない。
「ついに…!」という感動が味わえるかもしれない。
だけどその手に入れた現実がやがて自分の日常となった時に、想像していたようなキラキラとはうらはらの、変わり映えのない日常が始まる。
あなたが心を奪われているものが、あなたに「有っても」「無くても」、同じだと言われているのが、
「有無同然」と仏教で言われる言葉です。
「夢のような世界」と「つまらない日常」の違いって…?
私たちはついつい、自分に「無い」ものを他人が持っていることに心を奪われて、
「自分にはあれが無い、これが無い」と、自分は「無い」部類の人間だと思っていますが、決してそんなことはないはずです。
自分の身の周りを見れば分かります。
そもそも、このブログを映し出しているその端末機。
パソコンなのか、スマホなのか、タブレットなのか分かりませんが、インターネットにアクセスして自分の見たい情報を眼前に映し出してくれる道具ですよね。
そんな端末機を手に、カフェでコーヒーを飲みながら楽天市場のサイトを眺めて
「あー、これ欲しいなあ…」
と言っているその姿が、どれほど恵まれた姿であることか。
世界中の人からどれほど羨望の眼差しで見られるものなのか、という話です。
ずいぶん前に出た「世界がもし100人の村だったら」という、かなり話題になった本があります。
この本が出た当時は世界人口が60億と言われていました。
その60億の人を、100人の村に縮めたらどうなるでしょう?
こういう発想で、色々な数字が出てくる本です。
ちょっといくつか紹介すると…
100人のうち、20人が、栄養が十分ではなく1人は死にそうなくらいです。
だけど15人は太り過ぎです。
75人は、食べ物の蓄えがあり、雨露をしのぐところがあります。
25人は、ありません。
17人は、きれいで安全な水を飲めません。
銀行に預金があり
財布にお金があり
家のどこかに小銭が転がっている人は、いちばん豊かな8人のうちの1人です。
村人のうち
1人が大学の教育を受け
2人がコンピューターを持っています
だけど、14人は文字が読めません。
こんな感じの内容です。
私たちが他人を見て、「あれが有ったらなあ…」と羨んで悶々としている姿というのは、
その前提として
当然、毎日食事にありつけて栄養に困ることはなく
当然、帰って安全に寝られる家があって
当然、一定のお金の蓄えがあり、そんなに贅沢しなければ好きな食べ物でも飲み物でも欲しいときに手に入れられて
当然、何かしらの端末機で欲しい情報を取り入れることができて
その上で私たちは、
「あの人はいいなあ、この人は恵まれているなあ…」
とぼやいている。
これが実態ですよね。
私たちが「当然」に、「日常のこと」として、持っている現実は、世界中の大多数の人にとっては、憧れであり夢のような世界だということが、こういう統計を見ると分かります。
ちょうど私たちが、
タワーマンションの最上階で生活していて、ベンツやフェラーリのような高級車を何台も持っていて、素敵な恋人がいて、高級レストランやバーへ好きなだけ出かけていて…
海外旅行も自由に行けて、気の合う仲間達とだけ関わって、ワクワクするような企画を話し合って、日々新鮮な経験ができて…
そんな富と自由を謳歌している人を羨望の目で見ているのと同じような目が、世界中の大多数の人から私たちに向けられてもおかしくないのですね。
ところが私たちは、いかにこのような統計を見せつけられても、世界中から羨望の目で見られていようとも、それでも心にはどうしても物足りなさを感じてしまう。
寂しさ、不安、惨めさ、劣等感、そんな思いに悶々として生きているという現実があるのです。
それと同じ事が、私たちが羨望の目で見るようなキラキラして見える人たちの現実に起こっていても、何ら不思議なことはありません。
どんなに恵まれていそうに見える人たちにも、今の私と同じように不安や物足りなさを抱えて生きているのが現実だということです。
想像したら「夢のような世界」
現実化したら「つまらない日常」
そんな事実が見えてきます。
だから、想像していた時、憧れていた時はキラキラ輝いている世界だったのに、いざ私の現実になった時に思いもよらなかった悶々として思いにかられてしまう。
そんな、想像と現実との落差に落胆してしまう悲惨な姿が後を絶たないのです。
「あれが無い、これが無い」と思っているあなたの現実から、欲しくてたまらないものが「有る」ようになった現実に変わっても、悶々とした思いで生きていることには、変わらない。
この現実を「有無同然」と言われるのです。
「自分の道」を見つけて歩むためには
この「有無同然」という言葉は、一見すごく否定的で、夢も希望のない言葉のように思いますね。
心に夢を描いて、そこに向かって一生懸命努力している人に水を指すような言葉のように思う人もいるかもしれません。
どうせ有無同然なのだから、夢に向かって突っ走るなんて馬鹿馬鹿しい。
そんな極めてネガティブな考え方ではないかと思うかもしれません。
もちろんそのような、努力を全否定するような言葉が「有無同然」ではありません。
逆に、この「有無同然」の現実を理解してこそ、自分が本当に努力を注いでも悔い無しと言える価値を見つけることができるのです。
私たちは日々、色々な想像を掻き立てられてついついそこに心が向いてしまう。
時にどうしても欲しくなって、見合わない労力をそこに注いでしまう。
そうやって限られた人生を消費してしまいがちなのですね。
そんな中で、自分にとって本当に価値あるものを見つけるのは大変なことです。
なにせ、色んなものにいちいち強烈に心を奪われてしまうのだから。
だからこそ、その想像と現実は違うということを理解することが必要なのです。
そうすることで、冷静な目で自分にとっての価値を模索することができるのです。
この現実を理解した上で、踏まえた上で、それでも自分がやりたいと思うことは何か。
それでも自分が求めたいと思うものは何か。
そう考えてこそ、自分にとっての「本物」が見えてくるのですね。
「他人の姿」に翻弄されずに「自分の道」を歩むための土台を築くことになるのです。
今回はここまでになりますが、「自分にとっての本物」を見つけるとか、「自分の道を歩む」については、まだまだ抽象的ですね。
次回はこのことについて、お話ししたいと思います。