理性的思考の底にあるもの
「あの時実は私、とっても辛かったんです。」
…あの時?え、あんなに楽しそうにしていたのに!?
こんな風に、後から聞くと相手が思いもよらない気持ちになっていたことを知る、ということがあります。
楽しそうに見えるけど実は辛かったり悲しかったり。
辛そうに見えるけど実はとても幸せだったり。
楽しんでいるようでいて、実はとても退屈していたり。
他人の心は見えませんから、「分からないものだな…」となることが多々あります。
他人の心も分からないことが多いですけど、自分の心は、どうでしょう?
「自分の心なら分かっている」
と、言い切ることはできるでしょうか。
自分の心だって、やっぱり目には見えないものです。
肉体なら鏡で見ることができます。
また健康診断にかかって、検査してもらうこともできます。
人間ドックに行けば、相当細かいところまで調べてもらって、肉体の状態を知ることができますね。
だけど心は鏡にも移らないし目にも見えません。
今、自分はどんなことを思っているのか。
自分の中でどんな心が動いているのか。
実は、非常に捕らえどころがないものです。
だけど、何かを分析している時や、計算している時や、計画を立てている時は「自分はこういうことを考えている」と自覚しやすいですね。
「うーん、この人はどうして怒っているのかな。私のさっきのあの言い方が気に入らなかったのかな…」
「この唐揚げ定食が650円か…この出費のペースなら今月はなんとか乗り切れるかな…」
「まず午前中にこの明日のプレゼンの準備を仕上げて、この案件は午後から取りかかろう。夕方からは会議だから…」
こんな風に、「分析」「計算」「計画」というようないわゆる「理性的な思考」を働かせているときは考えている内容が明確です。何なら言語化することもできます。
この「心」の状態は、かなり分かりやすいと思います。
だけど考えてみると「分析」「計算」「計画」はコンピューターでもある程度できるものです。
コンピューターは、人間の操作・命令に従ってこういった働きを実行するものです。
あくまで人間がある目的のために使用する過程でなされている働きです。
人間の心はそんな、コンピューターのように「分析」「計算」「計画」をするだけ、というような単純なものではありません。
そういった「理性的な思考」の底に、それを動かしている元となる心があります。
そんな「分析」「計算」「計画」をさせている「元」はどこにあるのでしょうか。
「この人はどうして怒っているのかな…」
と、「分析」するのはなぜでしょう。何のためにそんな分析をするのでしょうか?
そこを突っこんでいくと、表面的な「分析」よりも、もっとモヤモヤした心の領域に入っていきます。
その人のことが好きだからなのか?
その人の機嫌を損ねてはまずいという保身の心があるからなのか?
いったいどんな心で、そんな分析をしているのか。
この心の領域はかなり複雑です。
「この出費のペースなら今月は…」
と、どうしてそんな「計算」をしているのでしょう?
お金の余裕がないと不安だから?
どうしても欲しいものがあるから?
計画的出費が大切だと教えられているから?
出費をコントロールしようという「計画」の底に動いている、いろいろな心がありそうです。
「午前はこうして、午後はこうやって…」
そんな仕事の「計画」をどうしてしているのでしょう?
効率よくこなせば後が楽になるから?
高く評価されて昇給、昇進を目指したいから?
失敗して叱られたくないから?
デキる人と、周囲の人から思われたいから?
などなど、「計画」の底にいろんな心が動いている可能性があります。
明確に自覚している「分析」「計算」「計画」といった理性的思考の底に、そんな思考を動かしている元である「心」が動いています。
そちらの「心」については、非常にぼんやりとしています。
このモヤモヤさえ…
もし他人から、「何のためにそんな分析をするの?計算をするの?計画するの?」と聞かれたら、それなりに答えるかもしれません。
だけどそうやって他人に出している「答え」は、他人に出せる形に取り繕ったものであり「素の心」とは相当の隔たりがあるはずです。
そもそも、自分の心は良いものであって欲しいという願望が私たちにはあります。
自分は立派な心を持っている、美しい心を持っていると信じたい。
そんな「願望」を通して自分の心を解釈しているのです。
「これが私の本音だ」という自分の理解もまた自分の「願望」というフィルターを通したものですから、「素の心」とは言えません。
本当のところの本音、本心はどんな姿なのでしょうか。
それが、私たちは全然分かっていないというのが実態です。
この表面的な理性的思考の底にある「本心」とは、これほど私にとって大切なものはありません。
行動を突き動かす「元」であり、いわば、「理性的思考」さえもこの「本心」に支配されてなされているのです。
「理性的思考」が自分をコントロールしている、という感覚で生きているとしたら、実はそれは逆です。
「理性的思考」は、ごく表面的な思考に過ぎないのであって、それを支配している「本心」が奥底にあるということです。
「理性的思考」が「コンピューター」に喩えれば、「本心」はそのコンピューターを「操作している人」です。
それこそが本当の「私」と言うことができます。
最も大切なその「本心」がこれ以上なくモヤモヤして得体が知れない。
この「自己に暗い心」が、あらゆることに対して不安の影を落としてしまっています。
この「自己に暗い心」を抱えて私たちは、
仕事をして、恋愛をして、友達付き合いをして、家事をして、育児をして、人生を充実させようとしています。
しかし肝心要の「自分の心」が真っ暗闇の中にあるため、どこか不安が拭えません。
「モヤモヤしている」ということが問題なのです。
それがどんな姿にせよ「ハッキリしている」ならば、それだけで安心です。
それがたとえ醜いものであっても汚いものであっても、「明確に分かっている」のであれば、安心して力強い一歩を踏み出すことができます。
「自分の心なのだから、良いものであって欲しい。だけど、どうなのだろう…?」
「イヤな心が動いているような気もする。綺麗な心があるような気もする…」
「他人を思いやる心もあるはず。だけど、自分のことしか考えていないようにも思える…」
このモヤモヤしてハッキリしないことが、辛いのです。
たとえば大事な試験を受けた後、合格発表までの間は常に「合否がハッキリしない心」が横たわっています。
「出来たような気がする。大丈夫のような気がする。だけど、ダメかもしれない。大きなミスをしているかもしれない。」
「合格しているだろうか…?不合格なのだろうか…?」
この、ハッキリしないモヤモヤしている状態が、「不安」なのです。
これが、合格発表を受けて、
「合格していた!」
となれば、もちろんそれなら安心できます。
「ダメだった。不合格だった。」
となっても、これもまたモヤモヤが晴れてハッキリしたのだから、これはこれで安心なのです。
そして、そして自分がやるべきこともまた、ハッキリ見えてきます。
次の一歩を力強く踏み出していけます。
モヤモヤしている。ハッキリしない。
これが一番辛いことです。
ハッキリと明確にできるワケ
仏教では、人間の心の奥底にある「本心」について、その本質は、万人共通であると説きます。
いや、人の心なんて一人一人、千差万別ではないかと思われるかも知れません。
それはあくまで表面上にどう表れるかという表れ方が千差万別になっているのであって、奥底をたどればその本質は、70億人いても皆、共通していると仏教では教えます。
それは時代を経ても変わりません。
人類何千年もの歴史の中で色々な変化が起きていますが、それらの激動の変化の中にあっても一貫して変わらない人間の性質があるのも事実です。
何千年前の人間の考えていることも、現代の人間が考えていることも、実はさほど変わっていないのではないかと、思いませんか?
それは今のようにテレビもパソコンもスマートフォンもない時代でしたから、表面的には全然違うことを「思考」しているように見えます。
だけどその「思考」の奥底の本質を突き詰めれば、同じようなことを考えていたりするのですね。
どれだけ時代が変わっても、どれだけ環境が変わっても、変わらない人間の心の本質。
それこそが私の奥底に潜む「本心」の正体です。
表面的な「理性的思考」の底に潜み、あらゆる思考を支配してあらゆる行動を生み出し続けている「本心」です。
そんな共通したものだから、仏教はそれを明確に教えることができます。
もしそんな共通した本質が無いのなら、「人それぞれで見つめて下さい」と言う他ありません。
そうではありません。万人共通した本質があるから、それを明確に教えることができるのです。
私たちから言えば、それを学んで明確に知ることができます。
「心の奥底のモヤモヤした部分なんて、一生分からないものではないか」
と思われるかもしれませんが、そうではありません。
学んで明確に知ることができるものです。
そして、明確に知った上で堂々と人生を歩むことができます。
次回、その内容に入っていきたいと思います。