「想像上の他人」と「現実の他人」との違いは…?
他人の目に、私はどのように映っているのでしょうか。
これは知りたくてやまないことなのですが、知りようのないことでもありますね。
「こう思われているだろうな」
「あんな風に思われただろうな」
という想像を私たちは巡らすのですが、本当のところはどうあっても知り得ないことなのです。
ですが、「どのような仕組みで他人は私を捉えているか」を知ることは出来ます。
なぜならそれは、私が他人に対してしていることと同じだからです。
「私が、他人のことをどのように捉えているだろうか」
ということをとことん深く突き詰めたならば、それがそのまま「他人が私をどう捉えるか」という真相に行き着くのです。
そこで、試しに誰かのことを思い浮かべてみて下さい。誰でもかまいません。好きな人でも嫌いな人でも。その人のことを想像してみて下さい。すると、その人の像が浮かんできますよね。そして、その人の声も、動きも、ありありと浮かんでくると思います。
私たちの脳内再生機能というのは本当に大したものですよね。見た記憶、聞いた記憶、触れた記憶などをもとに私たちの意識は心の中に他人の像をありありと映し出します。何ならその像に自由な動きを加えることもできます。その人が言ってもいないことを言わせたり、してもいないことをさせたりすることも出来ます。
まあ、想像は自由だっていうことですが。それだけの像を作り出すだけのデータを私たちは持っているということなのですね。
もちろんこれはただの想像であって、実際に当人に会ったならば想像とは違う言動を見せてくることでしょう。
けれどその実際に会って見ている相手の姿も実のところは、こちらが勝手に作っている像なのだと言ったら、どう思うでしょうか。
「いやいや、実際に会って見る相手の言動は、相手の動きそのものでしょう。だって全然こちらの思い通りには動かないのだから。」
と思われるかもしれません。
確かに想像と違って、目の前にいるその人はその人の意志に従って行動しますよね。
そうすると
「こちらの思う通りの言動をするかどうか」
これが、実際会った時の相手の像と、一人で想像して浮かべている相手の像との違いだということになりそうですね。
だけど、よく考えてみると「想像」でだって、その相手のどんな姿をも作り出せるわけではありません。想像は自由だとは言いますが、その人の像でどんな想像をも出来るわけではないのですね。
「あの人の、こんなことをする姿なんて想像がつかない」
なんてことがありますよね。
心から尊敬しているその人が「万引き」とかする姿なんて、想像しようと思ってもできないものです。たとえ無理やり想像したとしても、きっとその人は「全くの別人」になってしまっていますよね。あなたのイメージの中で万引きしているその人は、「その相手に似た顔立ちの別人」でしかないわけです。
自分に対して全く好意を抱いてくれていない人が、「自分のことが好きだ」という行動をしてくれるという想像を無理やりしてみても、違和感しかありません。想像の中のその相手はただ姿形を似せているだけで全く別人だということが、もう想像の中に組み込まれてしまっているのです。
結局のところ私たちは、たとえ想像であっても、作ることのできる他人像には限界があって、その相手と私との実際の関わり合いの延長線上のことぐらいしか出来ないのです。
「尊敬できる」ような関わり合いの相手のイメージは、自ずとその尊敬できる関係の枠内に限られるのだし、「軽蔑する」ような関わり合いの相手のイメージは、自ずとその軽蔑する関係の枠内に限られてしまうわけです。
ここでこの「関わり合い」というのがポイントになります。
「どのような関わり合いをなしているのか」
これによって他人像は決められます。
関わり合いのことを仏教では「縁」と言います。
そして、「私と他人との縁」とは、私の思いと他人の思いとが影響を及ぼし合っている状態だと言えます。この「思い」と「思い」のぶつかり合いの中に「人の像」が作られているわけです。
ですから、もしあなたが一人で誰かのことを想像してそのイメージを作ったとすれば、それはあなた一人で作っているわけではないのです。そこにはどうしても、相手の思いの影響が入ってくるのですね。
相手がこれまで、こちらに向けてどのような思いを向けてきたか。そして現在も向けているのか。
その相手の思いと私の思いとが影響を及ぼし合った結果、「他人のイメージ」が出来上がるのです。
一方、実際にその相手と会っている時もその仕組みは同じなのです。
私の思いと相手の思いとがまた強く影響を及ぼしあって、より明確な「他人のイメージ」が出来上がります。確かにそれは、一人で想像している時よりは相手の思いや行動の影響を強く受けているのですが、それでもそのような縁の中で「自らの思いで作り出している」という点では同じなのです。
結局のところ、私たちが向き合っているどんな対象も、縁によって自ら作り上げた像でしかないと言わざるを得ないのです。
勝手に作られてしまう「私」の像
さてここで改めて、
「他人の目に私はどのように映っているのか」
というテーマに話を戻しましょう。
他人もまた私と同じように、縁によって自ら私の像を作り上げて、そんな像と向き合っているというわけですね。
もちろんそこに私との縁が影響していますから、私の思いや行動によって、その相手が作り上げる像に影響を及ぼすことはできます。願わくばカッコ良い像を作ってくれるように、素敵な像を作ってくれるように、こちらとしては精一杯努めるわけですよね。
だけど、それでも最終的にどんな像を作るかは、相手に委ねられてしまっているのです。
その「相手が像を作る」ということについては、他人である私は邪魔のしようがありません。最後には、相手に勝手な像を作られてしまうわけですね。
ですから、相手が作る私の像に対しては、部分的にしか関与できていないと考えるのが妥当と言えるでしょう。大方は相手が勝手にその像を作ってしまっている。そこには、相手のそれまでの生き方・経験・価値観が大きく影響するのは言うまでもありません。それはもう、その人のこれまでの歩んできた道ですから、今更私たちがどうこうできるものでもありません。
こちらとしては、相手にとっての縁として影響を及ぼすことは出来ても、像を作っているのはあくまで相手なのです。
その人のこれまでの全ての生き様をかけて「私の像」というものを作っているのです。
相手のみる「私」の中に、その人の全人生が込められている。それぐらいの深い因縁によってその人は「私」という人物像を作ってしまっているのです。
それをどうして他人である私がコントロール出来るでしょうか。
「相手のみる私なんてそんなもんだ」
このくらいに思っておけばいいわけですね。
「ふーん、私についてそんな像を作るような生き方をしてきたんだね」
と思ってもいいわけです。
その上で、相手が願わくばよい像を作ってくれるような関わりを最大限努めるに尽きるというわけです。
そうやって努力はする。だけど結局のところ相手に委ねるしかない。
これぐらいのスタンスが、他人との関係を築く上では適度だと言えるわけです。
唯識という世界観が生き様を変えてゆく
今回は主に「人は『他人』とどう向き合っているのか」ということを中心に述べました。
実はこのような、
「縁の中で自ら作った像に向き合っている」
というのは、他人に限った話ではありません。
物でも、場所でも、環境でも、何に向き合っていても、自ら作り上げた像と向き合っているというのが本当のところだと仏教では言われます。
私たちの「認識」というのは、「自ら作り上げた像を自ら捉える」という営みに他ならないのだと教えるのです。
私たちの「認識作用」のことを仏教では「識」と呼ばれます。
「識」の「自ら像を作り上げて、それを捉える」という営みによって作られる世界に私たち一人ひとりは生きているというのが仏教の世界観なのです。
ですから、世界のすべては「識」の作用で説明がついてしまうというわけです。
このことを「唯、識のみである」ということで「唯識」と呼ばれます。
この唯識という世界観は仏教学において非常に洗練された学問として現在に残っています。「唯識学」と呼ばれる学問です。
この学問を学べば学ぶほど、「縁の中で自ら像を作り上げる」という「識」の働きによって人生のすべての現実が現れているという視点を確固として築くことができます。
このような世界観を築き上げた時、人生への向き合い方が大きく変わってゆきます。なぜなら私たちの人生のどこにも、「固定して決定づけられた運命」などは無いことが深いレベルで理解できているからです。
全ての現実は、自らの識で作っているのですから。
ということは、どんな状況にも必ず突破口があるということが見えてくるのです。
何か嫌なことが起きたとき、何かに行き詰まった時、
「ああ、どうしてこんな運命に見舞われるんだろう…」
という絶望感に浸ることがあったかもしれませんが、そんな「悲劇の運命の被害者」に甘んじる必要は全くないことが分かるのです。
すべては自らの「識」で作られている現実であるならば、その自らの「識」をどのように働かせてゆくかで確実に現実は変わってゆくのですから。
「さて、この現実を前にどんな意志を持ってどんな行動を起こしてゆくか。」
どんな現実を前にしても、そのような姿勢で人生に挑んでゆくことができる。そして必ず突破口を開いてゆくことができる。
唯識とはそのような生き様の土台となる学問と言えるでしょう。