「楽しい時間」と「苦しい時間」とを区別すると余計苦しくなる…?
「早く終わらないかなあ…」
と思いながら過ごす時間って、誰もが少なからずあると思います。
つまらない授業の時間
しんどい仕事の時間
眠くて仕方ない会議の時間
もしかしたら週末の休日まで、「早く平日が終わらないかなあ…」と思いながら過ごしていたりするかも知れません。
「終わらないで欲しい」と思う楽しく幸せな時間はすぐに過ぎてしまい、
「終わって欲しい」と願うつまらなく苦しい時間は果てしなく長い。
このように自分の人生を私たちは、
「楽しくて終わってほしくない時間」「苦しくて早く終わってほしい時間」
この二者に区別してしまっているのですが、これは強い固定観念ですよね。
「仕事の時間は苦しい時間」
「この人といる時間は嫌な時間」
「休みの日は楽な時間」
こういう、「幸せな時」「苦しい時」を固定的に決めつけるってことを私たちはしてしまいます。
このような固定観念は、苦痛にますます縛り付けられ、楽しみに必要以上に執着してしまい、がんじがらめの人生の温床となってしまうのは明らかなのですが…
しかしこれはある意味仕方ないことです。
「あそこに行くと、それはもう苦痛…」
「これが始まると、もう不快でしかない…」
この思いから完全に解放されるというわけにはいかないでしょう。
だけどそういう固定観念を、少しでも緩めることができたなら、もう少し楽に生きられるのではないか。
これもまた、誰もが思うことでしょう。
嫌な環境を避けることができればそれに越したことはないでしょうけど、どうしても避けられない環境もあるのが人生です。
そこで、
「楽に受け止める考え方」
「ポジティブに受け止める思考法」
などがよく論じられます。
しかし、なかなか教えられる通りの「思考法」「考え方」を持つのって難しいですよね。
「こう考えたらいい」なんて言われても、そう考えられないものは、考えられないのだから…
「思考を操る」って、言うのは簡単だけど、実行するのはある意味最大級に難しい事です。
そこで仏教では、
「こう考えなさい」「こう思いなさい」
と、ただ「考え方」を求めるばかりでなく、
私たちが向き合っているこの現実が“どのようにして成り立っているのか”ということを説き明かします。
そして、その“仕組みを分かっている”ということが、自ずと取るべき思考を導いてくれると言うわけです。
難しいゲームでも、ゲームの成り立ちを熟知していれば恐れることなく挑めます。
株や不動産の売買の世界でも、その“仕組み”を熟知している人は、一定以上の自信を持って挑んでいます。
“私たちの生きる現実そのもの”
“人生そのもの”
にも、そうなるべき“仕組み”や“成り立ち”が、ちゃんとあると言うことなのですね。
「仕組みが分かっている」「成り立ちが分かっている」
これは、私たちにとっては現実に立ち向かう強い武器となるのですね。
そこで、
「苦しい現実」「幸せな現実」
これらはどのように作られているのか。
その“成り立ち”について仏教でどのように説き明かされているかを述べてみたいと思います。
「苦しい時間」や「楽しい時間」を造る要素たち
「楽しい」も「苦しい」も、何らかの刺激に対して抱く感情ですよね。
こういった幸・不幸の思いが起きるのは、そのベースに“認識作用”が働いているからだと仏教では指摘します。
これを「識」の働きと言われます。
「識」は「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」「意識」の6つがあると言われます。
(もっと深めてゆくとあと2つあって8つと言われますが、「八識」のお話はまたの機会に…)
この6つは当然ながら、認識対象はそれぞれ異なっています。
「眼識」は“色や形”を認識し、「耳識」は“音”を認識し…という具合に。
仏教では認識対象のことを「境(きょう)」と言いまして、それぞれ6つの識の認識対象を以下のように示されます。
眼識—色境(色や形)
耳識—声境(音)
鼻識—香境(匂い)
舌識—味境(味)
身識—触境(堅い・柔らかい・暑い・寒いなど)
意識—法境(あらゆるもの。意識の対象には限りがありません。)
こんな具合に「識」と「境」とが相関わりながら同時に発生している。
それは、瞬間、瞬間ごとに新たに新たに起きてくるものだと言えます。
今は、あなたの「眼識」が電子端末に表示されるこのブログの文章を認識しているわけです。
このように文字を順々と読んでいるということは、「眼識」と「色境」とが新たに新たに生じては滅し、生じては滅して、相続していっているわけですね。
もしかしたら、何かのBGMが流れているかも知れません。或いはイヤホンで聴いているかも知れません。
そうするとそのBGMもまた、あなたの「耳識」と「声境」の連続的な生滅と言えます。
あなたの座っている椅子は、硬いですか?柔らかいですか?その「身識」と「触境」も、ずーっと固定されているものではないはずです。微妙にその認識に変化が起きているのであり、それもまたあなたの身識と触境が新たに新たに生じては滅して相続しているものです。
「意識」は、前の5つよりもずっと複雑な働きをしています。
今はきっと私の文章をジーッと読んでくれていると思いますので、眼識と色境にスポットを当てていることでしょう。
ところがその意識が、
「あ、このBGM、好きなやつだ」
とかいって耳識と声境にスポットを当て始めるかも知れません。
「あー、長く座っててお尻が痛いなあ」
と、身識と触境に向けられるかも知れません。
「意識」はあらゆるものをその対象とし、意識がどこへ向くかによってあなたの世界は大きく変わるはずです。
いずれの「識」も「境」も、瞬間的に生じては滅してゆくものですから、
新たに新たにそれらが連続的に生じて、あなたの生きる現実は展開してゆくのですね。
このように「識」の働きがいわば人生のベースとなっているのですが、ただ「認識する」だけでは済みません。
その「認識対象」に対して“快”か“不快”かの受け取り方をするのが人間です。
ロボットならば、単にその認識をデータ処理するだけで、いちいち「嫌だな」とか「好きだな」なんていう感情が出てきたりはしないでしょう。
人間はただ認識するだけではありません。
そこに“苦痛”や“快楽”が伴うことがあるのですね。
いわゆる“感受作用”とでもいうべき精神的作用ですが、これを仏教では「受」と言います。
快と受け取ることを「楽受」、不快と受け取ることを「苦受」などと表されます。
さてここまでで、専門用語がいくつか出てきましたね。
「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」「意識」
「色境」「声境」「香境」「味境」「触境」「法境」
「苦受」「楽受」
いっぱい出てきましたね…(汗)
だけど一つ一つは、あなたがしている“経験”そのものですからピンと来ないものは一つもないはずです。
どうしても仏教は漢字で書かれた“経典”として残されていますから、難しそうに見えますが、一つ一つの意味を聞けば、誰もが「よく分かる」ものなのですね。
これら一つ一つは、いわば“私たちが生きる現実を成り立たせる構成要素”というべきものです。
ブッダは私たちの
「生きるって何なのか?」
「どうしてこんなに苦しまなきゃいけないのか?」
という疑問に対して、“それらを成り立たせている構成要素を示す”という形で答えられているのですね。
このような“構成要素”のことを「ダルマ」とか「法」などと言われます。
経典にはこのように私たちの生きる現実を構成する「ダルマ」が数多く登場します。
“固定観念”が解体して見えてくるもの
仏教は常に「ダルマをみよ」と教えます。
あなたがどんな状況に見舞われているとしても、それらはここまで述べたような「ダルマ」によって構成されています。
必ず、その状況を造り上げている「ダルマ」があるのですね。
そしてそれらのダルマは等しく“刹那滅”のもの。
すなわち瞬間的に生じては滅するものです。そして次の瞬間また新たに生じて、また滅してゆく。
そんなダルマの刹那の生滅の連続で、“私たちの生きる現実”は展開して行きます。
だから
「一切は過ぎ去ってゆく」
という有名な「諸行無常」の教えが出てくるのですね。
苦しい時間も、楽しい時間も、等しく「過ぎ去ってゆく」性質のものに違いありません。
「無数のダルマの刹那の生滅」という、“現実の仕組み”を分かっていれば、そのことが自ずと見えてきます。
基本的に私たちは「楽受」のことを幸せといって、「苦受」のことを不幸と言っているわけですね。
その「苦受」ばかりが生じ続けている間は、
「あーあ、この時間早く終わって欲しいなあ」
となりますし、
「楽受」が起き続けていれば
「楽しい時間。いつまでも続いて欲しい」
となります。
そんな、瞬間的な「受」に全てを縛られるなんて、考えてみれば不毛極まりないことです。
実はここでもう一つ、見落としてはいけない「ダルマ」があります。
それが「行」というダルマです。
これは、“意思作用”というべき精神作用のダルマです。
先ほど、
「私たちはただ認識するだけでは終わらない」
と、述べました。
認識に伴って色々な“感受作用”が働いているのだと。
しかし、
「ただ苦楽を感じるだけでも終わらない」のです。
それに伴って実は“様々な行動となる意思作用”が生じているのです。
それが「行」であり、具体的な「行動」となってゆくものです。
この「行動」こそが、未来を造り出してゆく重要な意味を持ったダルマである事は、明らかですよね。
ところが私たちは、ただ「つまらないなあ」「嫌だなあ」「楽しいなあ」と言う「快楽」「不快」の感受作用にばかり心を奪われて、
“それに伴って、どんな行動に向けられた意思作用を起こしているのか”
を見落としがちなのかも知れません。
だけど皮肉なことに、一切の過ぎ去る中に、「行動」は未来の幸福や不幸を生み出す「業」と呼ばれる種となって、そのまま相続してゆきます。
そして必ずその行動の報いを結果として受けざるを得ないことになっている。
「因果応報」と言って、これもまた、仏教が説き明かす“現実の仕組み”というものです。
だから決して見落としてはいけないのが「行」という“意思作用”です。
ダルマを見抜くという視点を持って、人生の大切な要素を見落とさないように生きてゆきたいものです。
そうすると自ずと“固定観念”に縛られない生き方が実現されてゆくことでしょう。
※補足
今回は、「識」「受」「行」というダルマを紹介したのですが、これに「想」と「色」を加えて、
「色」「受」「想」「行」「識」の5つを五蘊といい、これで人間を構成する要素を全て表していると言われます。
今回はそのうちの3つしか紹介できませんでしたが、またの機会に他のダルマについてもお話できればと思います。
↓五蘊の残りのお話、こちらに書きました。
コメント
ああーーー!!ショウゴ先生はやっぱ分かりやすくてすごいです!!仏教というものが「仕組み」の話であるということがよく理解できます!!
続きも楽しみにしています!!いつもホントにありがとうございます!!
嬉しい感想を、有難うございます。
仕組みを知り道理を知ることがもたらす変化を少しでも実感して頂ければ嬉しいなと思っています。