「自分」へのモヤモヤを晴らす思考法~「因縁(いんねん)」の哲学~②

あなたが「変化」する瞬間に注目すると…

「自分」を見失うことなく、いつでも的確にとらえられているから、
余計な不安がない。
やるべきことがハッキリと見えている。
そして、必要以上に自信過剰にも自己嫌悪にも陥ったりしない。
たとえ一時、感情的になることがあっても、すぐに自分の軸に立ち戻ることができる。

「自分」を合理的にみる視点を持つことが、自分が本当の進みたい方向へ進むために最も大切なことで、
これが仏教思想をルーツとする日本の哲学の考え方なのですね。

その「視点」をもたらすのが「因縁(いんねん)」の哲学です。
これを前回からお話しています。

私たちが普段から
「自分」が好きだ。
「自分」が嫌いだ。
「自分」に素直になりたい。
「自分」を変えたい。
などと言っている「自分」というのは一体何のことなのか?

このことについて前回で掘り下げました。

その問いを解く切り口として、
「新しい自分を知った」という体験について考えていただきました。
これは言葉を変えると「自分」が変化する瞬間を考えるということでもあります。

どんなときに「自分」に変化が起きたと感じるでしょうか?

その分かりやすい場面が、「他者との出会い」です。
他者との関わりは、時に劇的に「自分」に変化をもたらします。
「この出会いが私の人生を変えた」
という言葉は誰しもどこかで聞くと思いますが、これは特別な人の特別な体験ばかりではなく、私たちの日常にも十分当てはまることです。
変化の程度の違いはありますが、他者との関わりを通して「自分」が、「人生」が、変化しているということは私たちの日常に常に起こっていることなのです。

今、あなたがこのブログを読んでいる瞬間もこのブログとの関わり、私との関わりで、多かれ少なかれ変化が起きています。

ということは、私たちは他者との関わりを通して変化し続けている。
言葉を変えると、他者との関わりを通して新たな「自分」を形成し続けているのですね。

他者との関わりのことを仏教では「縁」と言いますから、縁に触れて新たな「自分」が現れる、ということをこれまでもこれからも繰り返し続け、その集積が今の「自分」となっているのです。

私たちが「自分は」「私は」と言っている「自分」「私」の正体は、その縁に触れて現れ続けている「自分」の集積である、というのが前回の結論でした。

「自分」は何処から現れるのか

「縁」に触れて、新しい自分が「現れる」と言いましたが、

「現れる」って何ですか?

と、思いませんでしょうか。

「現れる」と言っても、新しい「自分」が、何もないところから現れるわけではないのです。
表面化していなかっただけで、その「種」は私の中にあったのです。

「私の中に種がある」とは、どういうことなのか?
このことを少しでもイメージしていただくために、人間の心を「海」にたとえてお話したいと思います。

ちょっと、「海」を想像してみて下さい。

…海、想像しましたか?
どんな情景が浮かびましたか?

砂浜のある海でしょうか。それとも岸壁に波がぶつかるような海でしょうか。
ビーチを想像された方なら、そこには人が大勢いたりしたでしょうか。それとも誰もいない静かな砂浜でしょうか。
海の波は、激しかったでしょうか、穏やかだったでしょうか。
空には太陽がさんさんと輝いていて、海の波がキラキラ光っていたりして。
なんとなく明るいイメージを持つ人が多いかもしれませんね。
もしかしたら、どんよりとして曇り空の下で雨や嵐が激しく波も激しく、荒れた海を想像されたかもしれません。

だいだいそんな感じのイメージでしょうか。

こんなイメージをした人はいます?

真っ暗闇で、音もなくシーンと静まりかえっていて、重圧感が強く、得体の知れない生物がウヨウヨして不気味な雰囲気の漂う空間…

こういうイメージをした人は、なかなかいないと思いますが、これも間違いなく「海」ですね。
そしてこのイメージはとても核心を突いています。

実は、多くの人がイメージしたであろう「海」は、海の表面の部分です。
太陽の光が届く範囲までの「海」であり、それは表面のごくごく一部分です。
太陽の光が届くのが、だいだい200mまでだそうです。これは海全体のたった2%です。

ということは多くの人がイメージする「海」は、わずか2%の部分というわけです。
もちろんそれも、「海」には違いありません。

しかし、太陽の光が届く、私たちがイメージするような「海」の底には遙かに膨大な「深海」の領域が存在しているのも事実です。
98%の領域は、真っ暗闇の「深海」です。

ちょっとひねくれた発想かもしれませんが、「真っ暗闇」こそが「海」の本質とも言えるわけです。
だけどそっちをイメージする人よりもわずか2%の表面的な部分を「海」とイメージする人がほとんどだと思います。

それと同じで、私たちが「心」と言ってイメージしているのは、実は心のごくごく表面の部分なのですね。

私たちが想像する「心」は、今まさにあなたがあれこれ思考をめぐらせている、いわゆる「意識作用」のことだと思います。
「今日の仕事のパフォーマンスは、悪くなかったな…」
「ちょっと疲れたなあ…」
「これから何しようかな…」
「明日の予定は…」
「あ、あの娘かわいいな…」
などなど、いろんな思考が動いています。
それは自分で自覚できている意識作用ですが、
実はこの自分で自覚している意識作用が、先ほどのたとえの「海」の表面2%の部分のようなものです。

その底に光の届かない真っ暗闇の「深海」の領域が広がっているように、私たちの心もまた、自分で自覚している意識作用の底に、自覚できない真っ暗闇の心の領域が存在すると仏教では教えられます。

その真っ暗闇の心の領域から、様々な縁をきっかけとして色んな感情や言動が表面化して現れているのです。

ということは、そんな感情や言動を生み出す「種」が心の奥底にあるということです。
心の奥底にある自分でも認識していない「種」が、外部からの「縁」が来ると、様々な感情や言動となって現れているのです。
この、心の奥底に潜む「種」のことを仏教では「業因(ごういん)」とか「因(いん)」と言われます。

そこに「縁」が加わると、新たな「自分」が表面化して現れる。

これが、新たな「自分」が縁に触れて現れる、ということの意味なのです。

※この「業因(ごういん)」については、「行動を貫く信念の源泉~「業(ごう)」の哲学~」の記事で詳しくお話ししています。

縁さえ来ればどんな自分でも現れる

「縁」に触れて表面化した「自分」も、まだ表面化していない「業因」として底に潜んでいる「自分」も、いずれも「自分」なのです。

「自分」には、そういう2面があるということです。

いまだ表面化していない「業因(ごういん)」という種が、自分の奥底にいったどれほどあるのでしょうか。

『歎異抄』という仏教書の中にはこんな言葉があります。

「さるべき業縁の催せば、如何なる振る舞いもすべし」

縁さえ来たならば、「如何なる」振る舞いもするだろう。
これは、どんなことでもやるだろう、ということです。

ということは、どんなことでもしでかすようなありったけの種を持っているのが自分だということです。
業因というものは、私たちが想像するよりもずっとずっと深くて複雑で、膨大な種の集合体なのです。

だから縁さえ来たならば、どんな「自分」が現れるか分からないということなのです。

そんな、私たちの奥底にある未知で膨大な「因」に「縁」が加わって、「自分」は表面化されるというわけです。
そのことを「因縁が揃って結果が現れる」と仏教では言われます。

これが「因縁(いんねん)」の哲学です。

深海のような奥底の領域にある無数の業因の集まりである「自分」
そこから縁に触れて表面化している「自分」

その両面がある。

そして、私たちが
「自分が好き」
「自分が嫌い」
「自分に素直になりたい」
「自分を変えたい」
と言っている「自分」は、縁に触れて表面化した「自分」を言っているわけです。

そのように理解すれば、私たちにとって大切なものはやっぱり「縁」ですね。

そして、今のあなたの「自分らしさ」というのは、あなたが選んできた縁によって作り上げてきたものです。
だから、これからもどのようにも「自分らしさ」は変えていくことができるものです。

今の自分が好きで、今のような自分で居続けたければ、今の縁を大切にしたら良いでしょう。
自分を変えたければ、これまでと違った縁を選んでいくことで、どれだけでも変えていけるということです。

「自分はどれだけでも変えて行ける」
このことは、そんな目新しい言葉でもないと思います。
色んな所で言われていることです。

だけど、余りに色んな所で言われていることもあって、まるで慰めか気休めのように聞こえてしまう人もいるかと思います。
そして、「そんなこと言っても、どうせ変われないのでは…」という思いがどうしても拭えない。
そんな思いに捕らわれて、前へ進めないという状況に陥っている人も少なくないでしょう。

だからこそ「自分」とはどのように出来ているのかという、そのしくみをよく理解することが大切なのです。
「自分は変われる」
は、ただの精神論ではありません。
因縁の哲学を紐解いて合理的に理解していける真実なのです。

合理的に「自分」をみる視点を持つことが、本当になりたい「自分」になって、本当に生きたい人生を生きるための土台となります。

縁によって表面化して現れる「自分」をいかにデザインしていくか。
これぐらい割り切って「自分」を合理的に見る視点を持つことができれば、冷静に堅実に望む方向へと進むことができるでしょう。

それと同時に、私たちにはもう一つの課題があります。
それは、心の奥底に潜む未知の「自分」を知るという課題です。

自分の奥底にいったい、どんな業因が潜んでいるのか。
これを知ることは、哲学の究極の目的と言ってもよい大きな課題です。

次回はこの課題についてお話ししたいと思います。

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