「自分」を見る独特の視点とは
他人に対して感謝したり尊敬したり、思いやったり気遣ったり…と、
他人に対してどんな思いを持って、どんな態度をとるかということについて、私たちは色んな教訓を受けています。
誠実であれ。
優しくあれ。
寛容であれ。
色々言われますね。
それと同じか、それ以上に大切なことは、「自分」に対する気持ちですね。
「自分」に対して、あなたはどんな思いを抱いているでしょうか。
「自分を変えたい…」
「自分に素直になりたい…」
「自分を好きになりたい…」
「自分が嫌いだ…」
色々な思いがあると思います。
…複雑、ですよね。
そして、どの思いにも、どこかモヤモヤした感じがないでしょうか。
他人ではなく、自分に対して向けているからこその「モヤモヤ」感があるのだと思います。
「自分」というのはそれだけ、私にとってこの上なく大切なものであると同時に、これ以上なくとらえどころのないものだからです。
そんな「自分」に心を向けたときに、スッキリしない感じを抱くのは当然と言えば当然のことです。
誰もがそんなモヤモヤを抱えながらも精一杯、自分の人生を生きている。
そんな「自分」に対する独特の視点をもたらしてくれる哲学を今回はお話ししたいと思います。
この視点に立って見ることで、モヤモヤ感から離れて冷静に自己を見ることができます。
ただ漠然と「私って…」「僕って…」と思いを走らせていては、そのモヤモヤ感ゆえに、思考のコントロールは非常に難しくなります。
どんどん自己嫌悪に陥ってしまったり、逆に自信過剰になってしまったりして、バランスの取れた思考ができなくなってしまいがちです。
それで、自分の本当に進みたい方向に進むことができず、足踏みしてしまいます。
「自分」を的確に見つめるための、確固たる視点を持つことが、一歩前へ踏み出していく大切な足場となるのです。
その視点をもたらすのが、「因縁(いんねん)」の哲学です。
モヤモヤにとらわれずに的確に自己を見る視点を、この因縁の哲学から学んでいきたいと思います。
あなたが「自分」に出会う瞬間
あなたは「新しい自分を発見する」という経験を、最近しましたか?
これまできっと、何度かありますよね。
「新しい自分と出会えます」
って、何かのキャッチコピーにありそうなフレーズですよね。
旅行のコマーシャルや学校の広告で出てきそうな言葉です。
こんな旅行体験を通して、自分の知らなかった一面を発見できる。
この環境に身を置けば、思いもよらなかった自分で出会うことができる。
そんな売り文句で色んな体験や環境を売り込んでくるのをよく見ます。
確かに、いろんな仲間や先生や学問や文化との「出会い」を通して
「私って、こんな気持ちになれるのか。」
「こんなことを言えるんだ。」
「こんな行動が自分には出来るのか。」
それまでになかった気持ちになったり、それまでしなかった言動が現れて
「新しい自分に出会えた」
と感じることがあります。
私たちは何かとの「出会い」を通して「新しい自分」を発見することを繰り返してきていると言えるでしょう。
中でも「人」との出会いは、劇的にこういうことを起こす可能性を秘めています。
だから、新たな人との出会いは人生で非常に大きな出来事だと言えますね。
あなたが出会う「自分」の正体
さて、ここまでの話で言えることが、
私たちが「自分を知る」のは大抵の場合、他者との関わりを通してである
ということです。
考えてみて欲しいのですけど、
私は医者です。
私は弁護士です。
私は美容師です。
私は一児の母です。
このように自分のことを紹介するときの言葉には、大抵「他者との関わり」が潜んでいるのですね。
「医者」は、病気やケガで苦しんでいる人を治療する人ですから、その中に病人やケガ人との関わりがあります。
「弁護士」は、色んなトラブルを法律知識を駆使して解決する人ですから、その中にトラブルで困っている人との関わりがあります。
「美容師」は、髪を切ったり染めたり巻いたりして美容の手助けをする人ですから、その中に美容を求める人との関わりがあります。
「母」や「父」は言うまでもなく、我が子との関わりがあっての言葉です。
他者との関わりを抜きにして「自分」というものを語るほうが難しいのではないでしょうか。
他者との関わりのことを「縁」とも言いますね。
何らかの「縁」を通してしか私たちがイメージする「自分」は現れようがないということです。
「縁」という言葉は仏教から出ている言葉で、「縁を大切にする」という仏教の考え方は、日本独特の思想にも大きく影響していることと思います。
「縁」は消えない
さて、縁に触れて現れるのが私たちがイメージする「自分」というものだとすれば、新たな縁に触れることで「新しい自分」はいくらでも現れることになります。
子供ができて親になった途端に、これまでにない振る舞いをしたりこれまでになかった気持ちが芽生える。
ライバルとの出会いで、これまでにしなかった努力をするようになる。
嫌いな人と関わなきゃいけなくなって、自分でも驚くほど嫌な気持ちが起きたり、冷たい態度で行動してしまったりする。
関わる人次第で、いろんな「自分」が形成されていきます。
これまで数々の縁に触れて、どれだけ新たな「自分」を形成してきたか知れません。
「どんな人と出会うかで人生は決まる」
ということを、あなたも何処かで聞いたことがあるかもしれません。
よく言われるのですね。
出会いによって「自分」のイメージが形成されてしまうのだから、「出会いが人生を変える」というのは全然大げさな言い方でもありません。
ある意味当然のことを述べているとも言えます。
そんな「出会い」があなたにもこれまでいくつもあったのですね。
意図的に求めての出会いもあれば、意図せずに訪れた出会いもあるでしょう。
この世に生まれた瞬間の親との出会い。
学校の先生やクラスメートとの出会い。
部活の先輩との出会い。
勤め先の上司や同僚。
後から入社してきた後輩。
得意先の担当の人。
最近はネット上での出会いも多くありますね。
今まさにあなたがこのブログを読んでくれているのは、ネット上での私との出会いと言えます。
また、誹謗中傷ばかりが書き込まれているような掲示板を閲覧することも、そういう発言をする人たちとの出会いと言えます。
数々の出会いは確実にあなたの「自分」というイメージを形成し、たとえその人のことを忘れても消えることなくあなたの中に残り続けます。
仏教では「縁」は、一度触れたならば決して消えることはないと教えます。
「業縁(ごうえん)」と呼ばれ、たとえ記憶に残らずとも、その縁はあなたの中にいつまでも残るということです。
一度自分に訪れた出会いを「無かったこと」には、もうできないのです。
そういう意味では他人と関わりを持つということは、物理的にその人と離れて関わらなくなることはあっても、「業縁」としてあなたの中に残り続けるという意味で、後戻りのできないことだと言えるでしょう。
「縁は消えない」これは綺麗事でもなく、現実の話なのです。
陰湿な他者攻撃ばかりが飛び交うネット上の掲示板を見る事は、それ自体が心の損失だと言われますが、「縁は消えない」という事実から考えても確かに恐ろしいことです。
それもまた確実に、自分のイメージの一部となって残り続けてしまうからです。
「集合体」としての「自分」
関わる人の数だけ「自分」のイメージが形成され、それらをつなぎ合わせて総合的に、今の「自分」のイメージが出来上がっている。
これが「自分」の実態なのですね。
「自分」とは何か?
という最初の問いの一つの答えが出てきそうです。
さまざまな縁に触れて現れた「自分」のイメージの集合体
これが「自分」である。
このように「自分」を理解することで、「自分」に対する認識をかなり冷静に行えるのです。
とらえどころのない、「なんとなく」の自分という認識で思いを馳せている間は、モヤモヤ感は拭いようがありません。
「自分をどう捉えるのか」の捉え方を明確にしておくこと。
その確固たる視点を持っておくこと。
ここから、「自分を好きになれるのか」「自分をどう変えたいのか」「自分に素直になるとはどういうことか」これら「自分」に対する思いを整理していくことができます。
そしてそこから、自分の本当に望む人生を切り開いていくことが出来ます。
数々の縁に触れて現れる「自分」というイメージの集合体
このように「自分」をとらえることが出来るということを、まず覚えておいていただきたいと思います。
一度、そういう目で自分を見つめてみて下さい。
これまでそうやって、「自分」を作り続けてきたのか、と気づくことができます。
そしてこれからも、形成し続けてゆくのです。
どんな縁に触れるかも、どんな「自分」を形成してゆくかも、あなた次第です。
「縁」は、避けられないものもありますが、選択できるものもあります。
だから、意図的に自分をデザインしていくこともできます。
このような視点が、いろんなモヤモヤに捕らわれずに自己を見つめる視点となります。
それは着実に、あなたの人生を本当に望む方向へと動かす土台となります。
さて、今回のお話で出た「自分とは何か」に対する答えは、実はまだ完全ではありません。
とりあえずの結論です。
なぜなら、「因縁(いんねん)」の哲学のうち、今回は「縁」についてしか話をしていないからです。
まだ半分です。
次回はもう半分の「因」についてお話ししたいと思います。