「私は愛されない星の元に生まれてきたのか」と嘆いていた頃
「愛され力」の凄い人っているんだなということを時々感じます。
その人の言っていること、やっていることは無茶苦茶なのに、だけど不思議と嫌な感じはしない。
「もう…しょうがないなあ、この人…」
って、そこに愛嬌すら感じる。
これは、年齢や性別を問わずに備わっている人には備わっているもののようです。
個人的には、この手の性質を持っている人には、もう妬みしかなかったですね。
自分は色々と努力しているつもりで、周囲にも気を遣っているつもりで、
こんなにも苦労しているのに、さほど他人から愛されるわけじゃなくて、
そうかと思うと、無茶苦茶な言動、適当な態度で周囲に当たっていながら、その人は誰からも可愛がられていて…
なんだよこの理不尽…
だけどそう思っている自分もまた、その人に対しては
「だけどこの人、憎めないよなあ…」
と思わずにいられないのが、ますます悔しくてしょうがなかった。
そういう人が大抵、周囲にはいたものでした。
だけどやがて、気がつきました。
あ、これ、気にしたらあかんやつなんやって。
自分とは違う類の積み重ねがこの人の過去にはあった。
ただそれだけのことなのですね。
その「積み重ね」は、意図的にそうしていたのか、感覚でしていたのか、
それとも、そういう積み重ねをして「可愛がられる力」を備えなければ自分を守れない
そんな過酷な状況にいたのかもしれません。
「人の強み」というのは、必要に駆られて、磨かざるを得ない状況に置かれてこそ磨かれることが多いですから、
その人に「強み」となる特性があるということは、それが必要となる環境にいたということなのかもしれません。
いずれにしても、出会う前のその人の生き様は、私の知らない“他人の過去”というものです。
漫画とかに出てくるような「過去回想シーン」でも見せてくれたら、色々と納得できるかもしれませんが、
そんな丁寧な機能は現実にはありません。
もう過ぎた過去のことですから、確かめようがありません。
ただ「そういう結果につながる過去があった」ということしか言えないのですね。
そして自分にはまた自分なりの積み重ねがあって、今の自分があります。
そして今の積み重ねがまた、未来の自分を造ってゆく。
そうして一人一人が、それぞれの因果に則って、それぞれの人生を形成してゆくのです。
私たちが妬みの対象にするような「他人の姿」は、
その「因果」のほんの断片を切り取っただけに過ぎません。
それがどんな過去の因から出ていたのか、
またそれがどんな未来の結果を生み出すのか、
そういうことには目がいっていないことが多いのですね。
ただの“断片”に“不変の実体”をみて浮き沈みする迷い
自分の人生の因果だけに目を向けて、他人の“断片的”かつ“表面的”な姿に惑わされずに生きられたら、どれほど楽になれるか知れません。
そういうものに惑わされるということは、それが“断片”だとも、ただの“表層”だとも思えないからでしょう。
「この人は、さほど努力もしないで愛されている人」
みたいなイメージを勝手に造り上げ、それを固定化してしまいます。
特に、
「自分が欲しくてやまない結果を得ている」と思える他人
「自分が頑張っていると自負している努力をしていない」と思える他人
に対しては、強烈にそういう「固定イメージ」を造り上げてしまいます。
そして、本当にそんな“理不尽の塊のような人物”が存在すると信じ込んでしまうのですね。
そしてそんな他人に対する固定化と同じことを、自分に対してもしてしまいます。
「そんな他人に比べて自分は、努力しても報われない存在」
という具合に、自分の「固定イメージ」をも造り上げてしまいます。
他人の固定イメージ化が自分の固定イメージを深め、
また自分の固定イメージ化が他人の固定イメージを深め…
そうやって、自他の虚構の“自我”に惑うて、苦悩はますます深まって行きます。
この“固定化された自我”への惑いから脱却するために仏教では徹底して
「全ては因果の道理に則って変転してゆくもの」
と、重ねて重ねて教えられています。
今日の1日24時間という時間は誰にも平等にありますが、
誰もがそれぞれ異なった“行動”を積み重ねてきているはずです。
またそれぞれが異なった“他者との関わり”を積み重ねてきているはずです。
仏教とは「行動」を「因」と呼び、「関わり」を「縁」と呼びますので、激しく移り変わってゆく「因縁」が、それぞれの人生にはあるということです。
一人一人の人生はそのような流動的なもので、過去から未来に向かって因果相続して激しく変化して行きます。
「いや私は、同じ人、同じ環境の中で、同じ行動の繰り返しなんだけど…」
と感じる人もいるかもしれませんが、たとえ同じ類の因縁を繰り返すにしても、それは“固定”したものではありません。
ただ、同じような因縁を、繰り返し繰り返し、新たに造り続けているだけのことです。
日々、新たに新たに因縁を積み重ねているというのが万人共通の道理です。
それらの因縁が、それぞれの人生の結果を生み出すのですが、その結果もまた瞬間的なものです。
過ぎ去ればそれはもう、過去のことです。
「誰かから深く愛された」
そういう結果があったとしても、もうそれは過ぎ去って過去となっています。
「いや、今でもその人から愛されています」
というのなら、それは今新たに生まれている結果なのですね。
過去の「愛された」と今の「愛されている」は似通ってはいるでしょうけれど、違う因縁による違う結果です。
幸というべきか、不幸にもというべきか、
どんな結果も必ず過ぎ去って、過去となります。
自分そうだし、他人もそうです。
このことだけは、誰にとっても平等な真理なのですね。
“一切は過ぎ去ってゆく”
ブッダが亡くなる直前にお弟子に言われた有名な言葉があります。
“一切は過ぎ去ってゆく。怠ることなく修行を完成させなさい”
そうお弟子に言われてすぐにブッダは、涅槃へ入って行かれたと、「大パリニッバーナ経」という仏典には記されています。
「愛した、愛された」「褒められた、貶された」「大事にされた、大事にされなかった」
自分も他人も、それぞれに違った人生の結果を受けて、楽しんだり苦しんだりしています。
そしてそれぞれの結果に対して、羨んだり、誇ったりして浮き沈み激しく私たちは生きています。
だけど、“一切は過ぎ去ってゆく”という真理の前では等しくみな“過去”と消え去って行きます。
ただ、いま一人一人が作り続けている“因縁”だけは、未来を生み出す原因として消えることなく残ります。
だからこそ、今の結果に対して浮き沈みすることなく、善き因縁を求めることを最も大切にすべきなのですね。
“一切は過ぎ去ってゆく。”
と言われた後に
“怠ることなかれ”
と教訓されているのは、過ぎ去ってゆく今の結果に執着するよりも、
怠ることなくただ行動に努めることを勧められる仏教の教えと言えます。
自分も他人も等しく抗えない真理がある
私たちは否応なしに、明日へ明日へと向かって生きています。
今日という一日に留まることはできず、全て昨日と過ぎ去って行き、明日へ明日へと進んでゆく。
これが万人にとっての平等の真理と言えるのですね。
だから、
今日の結果は、拠り所とはならない。
過去の栄光はなおさら、拠り所にならない。
未来へ向かう私たちにとって拠り所となるのは、積み重ねてきた行動であり求めてきた善き縁です。
何よりも今、どんな行動をし、どんな縁を求めているのかです。
そんな因果の道理に則ったならば、「色々恵まれている他人」という結果は、昨日へと過ぎ去ってゆく一時的な結果です。
未来も同様な結果に恵まれるかどうかなど分かりません。
未来は、その人自身の求めてきた因縁によるしかありません。
他人の結果が一瞬のものならば、自分の結果も同じことです。
だけどもしあなたが、確かな因縁を求め続けているのならば、それは、何よりもの拠り所を得ていると言えるでしょう。
結局のところ「怠らないこと」が最も確かな拠り所であり、そうやって未来へ未来へ向かっていることが、最も心地よいものです。
そんな“安心”や“心地良さ”の本質を見失わなければ、他人や自分の“断片的”かつ“表面的”な結果を比較したりして浮き沈みする事はありません。
果てしない因果のほんの“断片”に誰も安住することなどできないのに、それを“不変の拠り所”と見て執着している姿ほど危ういものはないのですね。
自分も他人もお互いに、厳粛に転変してゆく因果の法則に抗うことはできない者同士です。
そんな中で、精一杯の因縁を求めている者同士です。
願わくば、お互いに善き縁となれるように努めたいものです。