「この人が話すとなぜか話が入ってくる」のはなぜか
同じ内容のプレゼンテーションでも、
「誰がするか」
によって、全然話が入ってこなかったり、とても惹きつけられて話が入ってきたり、
その違いは雲泥の差だったりしますよね。
同じジョークでも、
「誰が言うか」
で、また全然違います。
あの人が言うと、みんなが笑うのに、私が言っても、ノーリアクション…
そんな理不尽を感じた事のある人は少なくないでしょう。
この「差」を生み出すモノは、何なのでしょうか。
その人の肩書?
その人の社会的地位?
イケメンかどうか?
服装?
どれも影響しそうなのですが…
話が入るか入らないかを大きく左右する要素が、「場の空気」なのですね。
プレゼンテーションの上手な人は、「場の空気」を上手にコントロールしています。
「場の空気」と言ってもなかなか、とらえどころのない概念かもしれませんね。
もうちょっと具体的に言うと、「場の緊張感」です。
「その場の張り詰めた緊張感」というものがありますね。
ダウンタウンの松本人志は、「緊張感」を操る天才だなと個人的には感じています。
「人志松本のすべらない話」(You Tube動画でいっぱい聴けます)なんかで、彼が話し始めると
「次に何を言うだろう…?」
という期待や緊張感が、なぜか周囲の人に走るのですね。
そして、上手にその緊張感を張り詰めさせているわけです。
「うん、うん…それで、それで、その先は…?」
そうして期待と緊張感を高めて、高めて、絶妙のタイミングで「オチ」を付けて、
「ドッ」と、大受けする。
この瞬間が、高まった緊張感が一気に解放される瞬間なのですね。
仮に彼の言葉を100%コピーしても、同じ事は出来ません。
ただ「言葉」を発するだけでは、「場の緊張感」は操れないからです。
「言葉」以外の、様々な要素がそれを演出しているのですね。
そしてその「緊張感」が、その場の人の感情を動かしています。
「話が入っていく」、そして「忘れられないくらい記憶に残る」のは、人の感情が動いた時です。
私達がよく覚えている「言葉」や「話」も、それを聞いた時に、何かしら感情ていた場合が多いはずです。
ただ「話の内容」だけで感情を動かすのは難しいのですね。
「言葉」はあくまで人間の作った伝達ツールなので、本能的・感情的な部分にダイレクトにアクセスするものではありません。
「場の緊張感」を演出できるからこそ、その空気の中で放たれた「言葉」が、相手の心に深く刻み込まれるわけです。
それが、感動にもなり、感銘にもなり、深い教訓にもなり、そして笑いにもなる。
そして、その人の記憶に深く刻まれ、時には行動を変えるほどの影響力を持ちます。
「テンション」の主導権は誰の手に?
「テンション」という言葉には、「緊張感」という意味もあるんですね。
よく「テンションが高い」という言い方をして、「気分」みたいな意味で使っている言葉ですが、
「場の緊張感」という意味で「テンションが張り詰めている」などと使うこともあります。
人と人とがコミュニケーションをしていれば、必ずその間に目に見えない「テンション」が存在します。
そしてその両者で、「テンション」のコントロールの主導権を、
持っている人
持っていない人
とに、分かれるのですね。
普通に考えれば、
先生と生徒ならば、先生がテンションをコントロールしている。
上司と部下ならば、上司がテンションをコントロールしている。
という事になりそうですし、きっと多くの場合はそうでしょう。
だけど、実際は必ずしもそうはなりません。
社会的な立場とは関係なく、テンションをコントロール出来てしまえる人はいるのですね。
果たして自分は、主導権を持っている側なのか、持っていない側なのか…
そして、どんな人がテンションをコントロール出来る人なのだろうか。
それを考えてみたいと思います。
小学校の頃でも中学校の頃でも、
「この人がしゃべり始めると、なぜか空気が変わり、周囲が注目し始める」
という子供が周囲に一人や二人はいたんじゃないかと思います。
「お、あいつがしゃべり始めた…」
「お、あの人が何かを言うぞ…」
そんな風に周囲が反応するような子供がけっこういるんですね。
そういう子の持つ特徴って何だと思います?
それは
「何を言い出すか、なにをやりだすか、周囲には予測不可能」
という点なのですね。
いつも、みんなが予想できるような事を予想通りにやっている人は、
行動を始めても、発言を始めても、その場の空気に何の変化も起きないでしょう。
行動の先が読めない人、予測不可能な発言をする人、いつも周囲の予想を裏切る人、
こういう人が動き始めると、周囲の空気が変わります。
それこそがまさに「テンション」です。
個人的に思うことですが、子供の頃には周りに結構そういう人はいたのですが、
大人社会に入ると、少なくなってくるような気がします。
きっと「常識」が身についてくるからでしょうね。
そして、「常識的に予想できる」行動を基本的にするようになるからでしょう。
子供の頃は、すごい影響力が強くて、一種のカリスマみたいな子供だったのが、
大人になって会ってみると、なんだか普通の人になっている。
そんな事は決して珍しくありません。
ただ変わったことをすればいいわけじゃない
「予想出来ないことを言えば、注目される」
「人と変わったことを言ったりやったりすれば、空気を変えられる」
ということを表面的に理解して、
「一生懸命、変わったことを言おうとする、予想を裏切る発言をしようとする」
こういう人もいますが、
これは、多くの人が陥ってしまいがちな落とし穴です。
会話の最中で、「わざわざ」脈絡のない事を言うとか。
声のトーンやスピードを不自然に変えてみたりするとか。
しかも、そういう事を日常的にやっていると、多くの場合、周囲の人は、
「またこの人は、変わった行動や発言をし始めるぞ…」
と「予測」されてしまいます。
言葉遊びっぽく聞こえるかもしれませんが、
「予測不可能な行動をしようとしている事」を、周囲からバレバレで完全に予測されてしまう。
という皮肉な事態に陥るのですね。
これは、「テンションを支配すること」には、全く繋がりません。
「予測不可能な存在となって、場のテンションを支配する」とは、そんなことではないのですね。
じゃあ、さっきお話したような「カリスマ的な子供」と、「変わったことをしようとする大人」と、何が違うのでしょうか。
実は、「変わったことをしようとしている大人」の行動も、結局のところ、
「周囲に認めてもらおう」という気持ちでの行動なのですね。
そういう意味では、常識に従って生きているのと本質的には同じです。
社会のルールや常識に従うのは、「社会人」として周囲に認めてもらうためですよね。
それに反した行動を取ってばかりいると、「社会不適合者」のレッテルを貼られてしまいますから。
「あえて変わったことをする」のも本質的には同じです。
周囲から「この人は普通とちょっと違う人だな」と認めてもらって、ユニークさを認知してもらいたいためにやるのですね。
「他人に認めてもらう事に必死になっている」
という点で同じです。
カリスマ的な子供には、そんな意識は微塵もないのですね。
ただ、自分の感覚で、自分の思った通りの行動や発言をしています。
その「思い」が周りよりも一際強くて、また一際明確で、それは一種の「信念」と言えるかもしれません。
そんな気持ちをそのまま行動に出すから、それは周囲にとっては予想不可能なのですね。
そして、そんな自分独自の明確化した「思い」や「信念」を、
「会社」という組織の圧力を受けても、
周囲の人が常識にしたがった行動に終始するようになっても、
変わらず持ち続けて、むしろ大人になるほどに洗練し続けて、自分の信念に従って生きている人。
こういう人が、テンションをコントロールする側に立つ人なのですね。
常識もわきまえている。
だけど、そんな常識だけにとどまらず、自分独自の信念や生き方をしっかり持って、それを何より重視して生きている。
そんな人が醸し出す態度は、周囲に「予測不可能」を感じさせますし、感情を動かします。
自然とテンションをコントロールし、いつも場をリードしています。
「信念」と言うと大げさなように思うかもしれませんが、
「自分が心から人生に望んでいる事は何か?」
自己と向き合って、それを模索してゆくことで、それがそのまま「信念」の元になるのですね。
誰もが強い「欲」を持って生きていますから、一人一人の中に、際立った強い「願望」が必ずあります。
もしかしたらそれは、子供の頃から変わっていないモノかもしれません。
その願望を、この社会の中で実現してゆく「道」を自分の中で描くことが出来れば、それは紛れもなく「信念」です。
そんな信念に従った生き方そのものが、
人とのコミュニケーションの中で自然とテンションを演出し、魅力を演出し、感情を動かす言動を生み出してゆくことでしょう。