人間〜とっても面倒くさい生き物なんだけど…
「理屈に合わないことは、信じられない」
「納得できないことには、従えない」
こういう気持ちって、人間としてだれでもあると思います。
ところが一方で、
「言ってることは分かるけど、ねぇ…」
「あの人は正論ばっかり言うから、気持ちを閉ざしてしまう」
こういう気持ちを持っているのがまた人間なのですね。
…納得させても、ダメなのかよ。
ちょっとめげそうになってしまう相手が「人間」なのかもしれません。
「人を動かす」
「人といい関係を作る」
「人に魅力を感じてもらえるようになる」
このことに興味のない人は、ほとんどいないのではないかと思います。
人生の悩みのほとんどが、「人間関係」に帰結している事は、誰もが実感している事だと思います。
「お金」といっても、「社会」から「人」からもらうものですから、
「お金を稼ぐ」というのは言ってしまえば「お金が入ってくるような人間関係を造る」と言ってもいいでしょう。
「健康」も、それを損なう大きな要因がストレスであり、日頃の人間関係が大きく影響している事は間違いありません。
「家族」も「仕事」も「スポーツ」も「サークル活動」も、人と人とが関係しあって成立しているものばかりです。
だから
「人間関係を制するものが、人生を制する」
と、声高に言われるのですね。
ですが、難しいですよね…
どんなに頑張っても、嫌われる時は嫌われるし。
せっかくいい関係が出来てきたと思っても、思わぬ事で亀裂が入ってしまうこともあります。
どんなに立派な人格者でも、敵のように思っている人は必ずいますし。
どんな人気の有名人にもアンチは必ずいます。
「あらゆる場面で、あらゆる人から慕われ、尊敬される」
を目指すのは、まずもって現実的ではありませんよね。
考えてみれば、この短い一生の中で、私達が関わりを持てる人間なんて、ごく限られています。
70億もの人間の中の、何%ぐらいだろうか?
ほんの限られた人としてか縁を持つことができません。
そう考えると、「極力、自分が本当に関わりたい人との縁を大切にする」、という考え方が大切になります。
「誰からも好かれよう」なんて考えていたら、キリなく、限りある体力・精神力・時間をすり減らしてしまいます。
その上で、自分の人生の中で善き人間関係を構築してゆく。
これは、一人一人の人生の大きなテーマであることは間違いありませんね。
その時に大切なのは「人間という生き物を熟知する」ことです。
ところがその「人間」というのが、「理性の動物」のようでいて、「感情の動物」のようでいて、
なかなかとらえどころのない存在なのですね。
「人間とは何者か」が、古来より哲学のテーマでありつづけていることも頷けるわけです。
「説得」しても動かない心を動かすモノは…?
自分自身の事で、考えてみたいのですけど、
「筋の通っていない事は嫌い」
「理屈に合わない事は受け入れられない」
こういう気持ちは確かにあると思います。
だけど本当に
「筋の通った事しか言わない人」
「理屈ばっかりこねて、正しい事しか言わない人」
そんな人に私達は心を動かされて、行動を起こすきっかけになるのだろうか?
必ずしもそうではないですよね。
それ「だけ」ではないはずです。
「筋が通っている」や「理屈に合う」とは別の所で、私達の心は動かされ、行動力の源泉となっているはずです。
それって、何なのでしょうか?
カリスマ…?
魅力…?
共感させる何か?
そんな答えが浮かんでくるかもしれないですね。
「感情が動かされる要素」
と言えるでしょう。
「あの人は正論ばっかり言うからつまらない」
と言う人がいますが、
別に「正論」自体が悪いわけではないのですね。
むしろ、ちゃんと筋の通った分かる話が出来ることは必要なことですよね。
「何を言っているのか分からない」では、話にもなりません。
だけど正論「だけ」というのが問題なのですね。
つまり、その人の話が少しも感情を動かしてくれない。
そこに「魅力が感じられない」となってしまう原因があります。
正論や理屈をキャッチする心は、人間の心の中でもほんの上辺の部分です。
いわゆる「理性」とか「意識作用」と呼ばれるような心の領域ですね。
特に人間はここが高度の発達しているので、
私達が「心」と言ったら、そんな「理性」や「意識」をイメージしてしまいます。
だからこそ、「人の心を動かそう」という時にも、
相手の「理性」や「意識」に向けてアプローチしようとします。
そこに、正しい情報を入れる努力を全力でします。
だけど、
「正しい情報」が、相手に「正しく」伝える。
これを果たしたとしても、必ずしも相手が「YES」と言うとは限らないのですね。
「うーん…分かるんだけど…」
と、渋り始める場合があります。
そうか、まだ情報が足りないのか。
そう思って、さらに加えて「正しい」情報を「正しく」伝える。
これだけ言えば、「YES」と言うだろう、と。
すると、さっきよりもますます頑なに心を閉ざしてしまった…
そうなるともう、「???」です。
だけど、こういう事がそんなに少なくないと思うのですね。
営業をしている人なら、交渉の場面なんかではけっこう「あるある」なのではないかと思います。
仕事で部下たちのモチベーションを上げようとする場面でも、ありそうですね。
恋愛なら、なおさらですよね。
「正論を通して説得して、恋愛に成功しました」
これは、ある意味でかなりのツワモノですよね。
「正論」や「理屈」だけでは動かない。
それは、人間の心の本質が「理性」や「意識」ではなく、もっと深い「本性」にあるからです。
中には、
「いえいえ、私はいつも、ただ筋の通った正論を述べて、人を動かせていますよ」
と言う人もいるかもしれません。
だけど、本当にその相手は、あなたの「筋の通った話」が原因で動いたのでしょうか?
もしかしたらあなたからにじみ出ている、別の要因なのかもしれませんよ。
表面上は、
「あなたの話、よく分かりました。」
と言って快諾しているかもしれません。
だけど、その人は自分でも気づかない間に、あなたの内側からにじみ出る「何か」に動かされた結果、
そう言っている可能性が高いという事なのです。
あなたの「落ち着いた口調」が、心を動かしていたのかもしれない。
あなたの「力強い目」が、心をとらえていたのかもしれない。
あなたの「ゆったりとしたジェスチャー」に、力強い説得力を「感じて」いたのかもしれない。
そんな、あなたが無意識に醸し出している何かが、相手の心に強烈にアクセスして、感情を動かしてる。
これが「人間関係」の実態だったりするのですね。
「人」に感情を動かされるロジック
仏教では、人間の心の実態を「煩悩具足(ぼんのうぐそく)」と言われます。
人間の心は、煩悩で満ち溢れている、という事です。
煩悩とは、「欲望」や「腹立ち」や「憎しみ」や「妬み」などの私達を「煩わせ」「悩ませる」心です。
ある意味「理性」と、相対するような心ですよね。
だけど、人間の行動を突き動かすのは、これらの「煩悩」だというのが仏教の人間観なのですね。
煩悩の中でも「欲望」がその代表格ですが、
「欲しい」なんてのは理屈ではないのですね。
「このバッグが欲しい。」
「この時計が欲しい。」
「この人と恋人になりたい。」
「このラーメンが食べたい。」
いずれも衝動的、感情的なものです。
結局の所、そんな感情的なものが人間を動かしているということです。
そんな煩悩具足の人間を相手にして、
理屈や正論に終始して、「感情」に対するアプローチがなされていないのでは、
私達の求める「いい関係」を築くのは難しいのですね。
「感情」って、どういった要素で動くのでしょうね。
もちろん、
美味しいラーメンが目の前にあれば、感情は動きますよね。
面白そうな漫画や映画があれば、動きます。
札束が目の前に積まれ始めたら、動くでしょう。
じゃあ、「人」と対面する場面で、私達はどんな要素によって感情を動かされるのでしょうか。
例えば、
お辞儀をしながら名刺を差し出し、
「はじめまして、私は○○と申します。
△△出身で、仕事は■■の役員をしております。」
この会話に、感情は動くでしょうか。
…まず無理そうですね。
それに対して、
「よろしく」
そう言いながら力強い目でまっすぐこちらを見て、右手を差し出し、握手を求めて来た。
少し戸惑いながらも手を出すと、力強くグッと握手を交わして、とても自然な笑顔を向けてくれた。
これだと、かなり感情が動きますよね。
ちょっと極端な例かもしれませんが、
前者は、無難な常識の範囲内で一貫している。
後者は、常識から逸脱しないまでも、ちょっと非日常感が出ています。
欧米ではこれが普通なのでしょうけど、日本ではほとんど「握手」なんてしませんよね。
だから、握手を求められるってのは、かなり非日常です。
それだけで、とても感情が動くと思うのですね。
「なるほど、常識にないこと。人と違うことをすれば感情は動くのですね。」
という結論になりそうなのですが、ただ闇雲に「人と違う事」に走ってばかりでは、
下手をすればただの「非常識な人」になってしまいます。
常識を踏まえつつも、常識にとらわれない確固たる「信念」を築いて、
それに従って生きている人の行動が、とても魅力的でいつも感情を動かすのですね。
つまり、感情を動かすかどうかは、自分自身の「生き方そのもの」が問われるわけです。
自分に、どれほどの確固たる「人間観」「人生観」が築かれているか。
そして、どれほど、その人生観に従った「生き方」をしているか。
改めて自身に問い、いい意味で感情を動かせるようなコミュニケーションを磨いてゆきたいですね。